焼き鳥・鶏料理・鰻(うなぎ)|株式会社鮒忠焼き鳥・鶏料理・鰻(うなぎ)|株式会社鮒忠

第四章 「右肩が上っている」

三度目の徴兵「父帰る」

ところが、一年もたたない中にまた赤紙が来た。何という運の悪さだろう。昭和14年4月に召集され、今度は初年兵教育のための麻布3連隊に入隊した。内地勤務なので、日曜ごとに家に帰って店の面倒を見られる。
その頃、私が12歳のときに家を出たまま音信不通だった父の居所が分かり、家族の前に再び姿を現した。現代版「父帰る」である。
風の便りに、足立区の工場で父が働いていることを耳にした。母は初め父を呼ぶことに反対だったが、「真面目にやっているらしい」と言い含めると、しぶしぶながら納得したようだった。父は工場に勤めるかたわら、どじょうや鮒を釣って生活していたようで、びっくりするほど血色が良く、でっぷりと太っていた。
「家へ帰って来てゆっくり暮らしてくれ。俺が軍隊に行っている間、店に座っていてほしいんだ」と言うと、
「お前たちが寺島町にいる時分には何もできなかった。これから思う存分働こうと思っているのに、お前の家へ行ったのでは働けない」
と、こんなときでも見栄を張って気持ちと逆のことを言うのである。内心では帰りたくてたまらないのだ。結局、
「それほど、俺がいないと困るんなら、帰ってやってもいい」
と、私と一緒に10年ぶりに帰って来た。しかし、母とは最後まで他人行儀のままであった。

米が統制になり、ついに米屋を廃業 ~28歳

3回目の召集〜長男修司(二代目社長)が誕生 3回目の召集〜長男修司(二代目社長)が誕生
普段は父が帳場に座り、私は日曜毎に家に帰って帳簿を見たり、仕入れの指示をしたりした。だんだんと戦争が激しくなって物資が不足し、統制が厳しくなると、米をはじめ食料品は欠乏し始め、闇商売が盛んになった。私は日曜しか商売を見ることができないし、父は生来お人よしで、闇値段で米を横流しするような才覚はない。店は細々と維持するのがやっとだった。
麻布連隊に入隊してから1年9か月が経った、昭和15年12月、ようやく私は除隊になった。ところが、翌年の3月には米などの主食品が配給制度となり、米屋は個人営業を廃止して、地区毎に合同で配給所となることが決められた。
私は根っからの商人だったし、商売の妙味などない配給所の月給取りになる気は毛頭なかった。米屋をやめるしかないと腹を決め、昭和16年5月に廃業した。