第二章 「商売を覚える」
4年で貯めた450円で独立 ~17歳

鈴木精米店には4年ほど勤めた。たいていは親父の人使いの荒さが辛抱できなくなり、半年くらいで飛び出してしまっていたから、4年は長い方である。この店で私が得たものは、何といってもセールスという仕事を覚えたことだ。
もう一つ、親父からは貴重な教訓「人の使い方」を得た。なぜ店員がすぐ逃げて行ってしまうのか。朝から晩までこき使うことも理由に違いないが、大きな理由は外でもない、待遇が悪いからである。商売熱心で店は拡張する一方だったが、従業員の労に報いることは全くなかった。私は、「人を使うには、使われる者の立場も十分考えなければ駄目だ」という教訓を得たのである。
もう一つ、親父からは貴重な教訓「人の使い方」を得た。なぜ店員がすぐ逃げて行ってしまうのか。朝から晩までこき使うことも理由に違いないが、大きな理由は外でもない、待遇が悪いからである。商売熱心で店は拡張する一方だったが、従業員の労に報いることは全くなかった。私は、「人を使うには、使われる者の立場も十分考えなければ駄目だ」という教訓を得たのである。
鈴木精米店に入ったときの給料は15円だったが、4年務めている間、1銭も上げてくれなかった。私は、15円のうち13円を家に送っていた。母は、その13円をそのまま貯金してくれていた。「仕事を覚えよう。金を貯めよう。独立しよう」という3か条を思い出しては、辛抱を重ねながら、独立できる日を密かに待っていた。
丸4年経ったある日、私はとうとう親父と衝突してしまった。それまでにも、待遇の問題で小さな衝突は何回かあったが、今度こそ本気で店を辞めることを考えた。
その頃、昭和始めの不景気のどん底で、口減らしのため東北辺りの農村から出てきた者が、「給料はなくてもいいから使ってくれ」と言っていた時代だ。親父には、高い給料など出さなくても使ってもらいたい人間がたくさんいるという考えがあって、辞めたいなら辞めろという態度を事あるごとに露骨に出す。その態度と私は真正面から衝突したのだ。
その頃、昭和始めの不景気のどん底で、口減らしのため東北辺りの農村から出てきた者が、「給料はなくてもいいから使ってくれ」と言っていた時代だ。親父には、高い給料など出さなくても使ってもらいたい人間がたくさんいるという考えがあって、辞めたいなら辞めろという態度を事あるごとに露骨に出す。その態度と私は真正面から衝突したのだ。
昭和6年9月、私は鈴木精米店を辞め、何をしたらいいのか途方にくれた。貯金は450円あったが、それでは米屋を開くことはできない。大八車を引っ張って八百屋でもやろうかとも考えた。そうこうしているうちに、向島町の山喜精米所という米屋が店じまいした後、格安で貸すという話が耳に入った。裏長屋の間口二間しかない小さな貸店だが、家賃15円、敷金45円だという。450円の資金では精米機は買えないが、当座の運転資金さえ間に合えば米屋を開けないこともない。
覚米を一俵売れば、約1円儲かる。1日1円稼ぐことができれば、15円の家賃を払っても母と2人で生活できないことはない。お得意を集めれば1日1俵売るくらいは何とかできそうだ、私はそんな計算を頭の中で始めていた。
引き売りの八百屋よりも習い覚えた米屋の方がいいに決まっているし、米屋を開店することは丁稚奉公のときからの念願でもあったはずだ。私は、米屋を始める決心をした。一旦決心したら迷うことはない。家賃と敷金を合わせて60円を払い、造作を変え、秤、自転車、リヤカー、看板など全部で250円つぎ込んだ。
引き売りの八百屋よりも習い覚えた米屋の方がいいに決まっているし、米屋を開店することは丁稚奉公のときからの念願でもあったはずだ。私は、米屋を始める決心をした。一旦決心したら迷うことはない。家賃と敷金を合わせて60円を払い、造作を変え、秤、自転車、リヤカー、看板など全部で250円つぎ込んだ。
こうして昭和6年9月、向島・寺島町の片隅に「根本精米店」の看板を掲げて米屋を開業したとき、兵隊検査も済んでいない18歳の私の胸は、希望ではちきれそうだった。
第三章 「間口二間の米屋で独立」
間ロ二間の裏長屋で独立 ~17歳

米屋を開店したものの、精米機も置いていない小さな店だったから、黙って座っていたってお客が来るわけがない。朝5時に起きて、本所にある筒井という精米問屋に行って白米を仕入れ、店に帰ってから茨城米や庄内米などと調合する。使用人を置くゆとりはなく、店の留守番は母に任せて、私は新規のお得意獲得に歩き回った。
店の近所では、「あの裏長屋のお米屋さんか」と断わられるに決まっているから、なるべく遠くを回って「根本精米店」と刷り込んだ名刺を持って、私自身はその店の小僧のような格好をして行く。ニキビ面の少年が店の主人とは誰も思わないし、若いのが主人だと言ったら店を信用してもらえるはずがない。
根本精米店の小僧のような顔をして、大勢店員がいるようなことを言って売り込んでいると、相手は大きな米屋さんが来たと信用するので、得意先の開拓は順調にいった。何となく後ろめたい気持ちもしたが、悪いことをしているわけではないし、安くて良い品質の米を提供すればいいのだと自分に言い聞かせた。
根本精米店の小僧のような顔をして、大勢店員がいるようなことを言って売り込んでいると、相手は大きな米屋さんが来たと信用するので、得意先の開拓は順調にいった。何となく後ろめたい気持ちもしたが、悪いことをしているわけではないし、安くて良い品質の米を提供すればいいのだと自分に言い聞かせた。
店を始めた頃は不景気の最中で、米は貸し売りが常識だった。米屋同士の競争も激烈で、貸し売りにした上に1銭でも安くしないと新規のお客はとれない。
「払いはいつでもいいですから、是非うちの米を買ってください」
と、米を置いてくるような強引な商法もあらわれた。
そんな状態だったから、私もやむを得ず貸し売りで注文を取っていたが、運転資金は450円の貯金から設備投資の250円を引いた200円と少ない。
「払いはいつでもいいですから、是非うちの米を買ってください」
と、米を置いてくるような強引な商法もあらわれた。
そんな状態だったから、私もやむを得ず貸し売りで注文を取っていたが、運転資金は450円の貯金から設備投資の250円を引いた200円と少ない。
仕入れは現金で払い、お客さんに月末勘定で売るので、注文が増えるに従って運転資金はたちまち消えてしまった。前日に集金した金を持って問屋に行き、1俵ずつ仕入れては、その日の注文を届けるというひどい状態になったこともある。そのうえ精米機を持っていないから、仕入れた玄米を精米所で精白してもらわなければならない。その手間賃がいるからどうしても利が薄くなる。幸い、注文は順調に増えていたから、見たところ繁盛していたが、内情は火の車だったわけだ。
現われた救世主

「精米機と、馬車1台分の米さえあったら」と、毎晩腕組みして考えたものだ。そんな頃、思わぬ救いの神が現われた。
大雨で向島辺り一帯が冠水したことがあった。店の始末をしていたところ恰幅のいい男が、「昨日届けてくれるはずの米はどうなったか」と訪ねて来た。大雨で配達が延びていたのだ。セールスに行ったとき、15人くらい店員がいる大きな店で、私はそこの小僧だとホラを吹いていたから、「しまった!」と思ったがもう遅い。その男は、ニキビ面の私の顔をしげしげと見て、
「ずいぶんちっぽけな店だな。お前が主人なのか」
と呆れた様子だ。
私は、てっきり注文は取り消されると観念した。しかし、男は店の中に入って来てあちらこちらのぞきまわったあげく、
「精米機も置いてないじゃないか。俺が金を貸すから盛大にやってみないか」
と言うのである。
その男は、横田豊四郎といって向島で高利貸をしていた。私は、高利貸から金を借りて自分の首をしめるようなことはしたくなかったから、「金を貸してやる」と言われても聞き流していた。ところが、私の反応には無頓着に、
「精米機はいくらするんだ」
「200円くらいです」
「それじゃ、500円もあれば格好つくな」
と、一人合点している。私が怪訝な顔をしていると、
「何をそんな間抜けた面をしているんだ。男が商売をやるからには、少し盛大にやってみろよ。お前はまだ若いようだが、どこか見どころがありそうだ。500円なら俺が出してやるから」
証文もいらなければ利子もいらないという、信じられないような話だったが、400円を借りて精米機を買い入れた。これで、堂々と玄米を仕入れて自分のところで精白調合できるようになった。米には軟質米と硬質米があって、これをほどよく混ぜ合わせてはじめて、食べて旨い米になる。これを調合と言う。私は今でも、米を握っただけで硬質米と軟質米の区別ができる。
玄米を仕入れて精米機で精白し、調合するのは手間がかかる。毎日仕入れて精白していたのでは、注文取りをして歩く時間がなくなってしまう。そこで、馬車1台分(10石)の米を買い入れることにした。当時の値段で、180円だったと記憶している。
鈴木精米店にいた当時、取引していた神田の米問屋「妻伝」に電話して、
「独立して米屋を開店した。現金ですぐ払うから、鹿島台を1台分持って来てくれ」
と注文した。「鹿島台」は宮城県の米で、硬質米と軟質米を混ぜ合わせなくてもそのまま使える米である。
間口二間の私の店は、妻伝から届いた25俵の米でいっぱいになった。店先に米俵を積み上げたときは、うれしくて仕方がなかった。
信用はしてもらうものではなく、人がするものだ
さて、馬車1台分180円の現金を用意して待っているのだが、妻伝からなかなか取りに来ない。勘定を済ませていないと借金をしているようで気分が良くないので、電話して早く取りに来てくれと催促した。ところが、ちっとも来ない。また電話してみると、
「勘定はいいですから、米はいりませんか」
と言うのだ。
鈴木精米店時代に顔は覚えているといっても、まだ若僧だ。独立して米屋を開いたところで、どんな米屋か分かったものではない。それを信用して向こうから取引したいというのだから、私は自分の耳を疑った。いくら不景気な時代でも、問屋が駆け出しの若僧を信用して取引するというのは普通のことではないのだ。
そのときの妻伝の番頭で、後に当主の婿養子になった金子要四郎さんに、当時なぜ私のような者を信用して取引してくださったのか、お父さんに聞いてくれないかと頼んだことがある。しばらくして金子さんとお会いしたとき、
「あの時なぜあなたを信用したのか、親父に聞いてみたんですがね。それは、根本君が自分の胸によく手を当てて考えてみな。そうすれば分かる。信用は、してもらおうと思ってされるものじゃない。人を信用するものなんだと言っていました」
「信用はしてもらうのではなく、人がするものだ」とは至言だと思う。自分がそれほど偉い人間だとは思わないが、妻伝が私を信用してくれたのは、鈴木精米店時代の私の働きぶりにどこか見どころがあったのかと密かに思っている。
月収百円の米屋に ~20歳

10石25俵の米を仕入れ、精米機を置き、やっと米屋らしくなった。「前に出たら、絶対に後に退くな。出るのは遅くてもいいから、出た以上は下がるな」というのが私の主義で、馬車馬のように働いた。母と私の2人だけの世帯だから、最低1日1俵売ればなんとか生活できる。1日1俵売るまでは、夜も眠らずに働こうと決心した。
まもなく、商売は黒字になった。その後、今日まで軍隊に行っていた期間を除いて30年商売をしているが、私は一度も赤字を出したことはない。横田さんに借りた金は返した。店員を5、6人使い、電話をひき、5号金庫を置いて銀行の当座を組む、これが私の夢だった。
私は、夢を一つずつ実現していこうと努力した。初めは1日に1俵か2俵だった売り上げも、お得意先が次第に増えて、半年経つ頃には、平均1日に5俵売れるようになった。鈴木の親父に、「尻を洗って田んぼに這いつくばっていろ」と馬鹿にされ、悔し涙にくれながら覚えた競り込みが、これほど自分の商売に役立つとは思わなかった。人間、苦労して覚えたことほど、大きな報いがあるものはない。
精米機の購入資金を無償で提供してくれた横田さんや、駈け出しの米屋に取引の道を開いてくれた妻伝の理解など、幸運に恵まれていたと思う。
こうして、店員を2人置き、1日5俵の商いは下らないだけの規模に育った。5俵の売り上げは、月収にすると110円。「1日2俵売れれば米屋は食える」と言われ、大学出のサラリーマンが月給100円もらえば上等だった時代に、20歳にもならない私はそれ以上に稼ぎ、誰にも使われるわけではなく、米屋の店主として一国一城の主になった。