第二章 「商売を覚える」
月給15円でスカウト ~13歳
隅田川を渡る白髯橋は私橋で通行料を取られた(現在の白鬚橋)
奉公の辛さを味わったが、へこたれずに私は働いた。老舗だけに、今考えてみれば比較的のんびりしていたし、丁稚小僧をこき使うことはあまりなく恵まれていたと思う。ただ、人一倍働いても褒められるだけで給料は良くならない。相変わらずお手当て月1円である。その点がちょっぴり不満だった。このままではいつまで経っても貯金はできないし、 年期が明けても店を持つことなどおぼつかないという不安もあった。
木塚商店に住込みに入って次の年の暮れのことだった。本所にある得意先で、鈴木という精米店があった。あるとき、そこの親父が私に話したいことがあると言う。何だろうと行ってみると、
「君は月給いくらもらっているのかね」
「1円です」
「たった1円か。君のように働く男を私は見たことがない。1円じゃ安すぎるとは思わないかい」
私はたじろいだ。
「どうだね。私は15円出す。うちで働いてみないか」
「君は月給いくらもらっているのかね」
「1円です」
「たった1円か。君のように働く男を私は見たことがない。1円じゃ安すぎるとは思わないかい」
私はたじろいだ。
「どうだね。私は15円出す。うちで働いてみないか」
今で言うスカウトだ。当時は関東大震災後の不景気で、帝大出がお巡りさんになっていた時代だからスカウトは珍しい。私もこの突然の申し出にびっくりしたが、15円という金額には大いに魅力を感じた。その場では即答を避けて、良く考えてみることにした。
木塚商店にいると、年期明けまで勤め上げて暖簾を分けてもらったところで、一生主家に対しては頭が上がらない。盆、暮れには自分の店を後回しにしてでも、主家の掃除や手伝いに駆けつけなければならない。金を貯めて米屋を出す資金を作った方が早道だし、自分の性格にも合っている。それに、独立するには問屋にいるより、小売の精米店で働いて仕事を覚えた方が効果的だ。月給15円なら5、6年倹約して貯金すれば、何とか店を出す資金が貯まる。
木塚商店で2年近く働いている間に、私は仕事に関して自信が持てるようになっていた。「あと5、6年経てば独立して店を持てる!」と考えると、14歳の私の頭の中は希望ではちきれそうになった。その頃、店の先輩が2人ほど独立して精米店をやっていたが、思うように売れず、木塚の主人のところに借金をしによく来ていたのを知っていた。
しかし、私は、自分は決してそうならない自信があった。店を持ったらあそこはこうしよう、ここはこうしようと、夢がどんどん広がってくるのだった。
しかし、私は、自分は決してそうならない自信があった。店を持ったらあそこはこうしよう、ここはこうしようと、夢がどんどん広がってくるのだった。
商売を覚えよう。金を貯めよう。独立しよう。
※写真はイメージです (画像素材:PIXTA)
結局、私は木塚商店を2年ほどで辞めて、昭和2年の始め鈴木精米店に転じた。住込みの小僧という境遇に変わりはなかったが、給料は15倍にはね上がった。人から、「鈴木の親父は人使いが荒くて欲が深い」と聞いて覚悟はしていたが、聞きしに勝るものがあった。昼はご用聞きや配達、集金で歩き回り、夜は12時頃まで帳面付け。寝る時間は毎日せいぜい5、6時間しかない。親父は典型的なワンマンで、少しでも骨休めしていると雷が落ちるような声で怒鳴りつける。
木塚商店の主人はおっとりとしていてがめつくなかったが、こっちの親父は正反対で商売となると目の色が変わる。12時ごろまで帳面付けをしていると、我慢できないほど眠くなり、ついウトウトしてしまう。すると途端に、
「この野郎、だてで飯を食わしているんじゃないだぞ!」
と、雷が落ちてくるのだ。
木塚商店の主人はおっとりとしていてがめつくなかったが、こっちの親父は正反対で商売となると目の色が変わる。12時ごろまで帳面付けをしていると、我慢できないほど眠くなり、ついウトウトしてしまう。すると途端に、
「この野郎、だてで飯を食わしているんじゃないだぞ!」
と、雷が落ちてくるのだ。
手提げ金庫に入れた貯金通帳や現金を、命よりも大事とばかりに抱え込んで、店員に帳面付けをさせても銭は触らせない。離れた町へ使いをさせるときは、電車代を倹約して歩かれたら時間が損だと、銭では渡さず切符を往復分渡す。店員を労って旨いものを食わせることは一度もない。
木塚商店の小僧勤め方が何倍楽かわからなかったが、私は後悔しなかった。それは、木塚商店を辞めてここへ来るとき心の中で、「仕事を覚えよう。金を貯めよう。独立しよう」と固く誓っていたからだ。親父は、商売に熱心で儲けることが上手い。商売を覚えるなら、こういう店の方がいいのだ。
木塚商店の小僧勤め方が何倍楽かわからなかったが、私は後悔しなかった。それは、木塚商店を辞めてここへ来るとき心の中で、「仕事を覚えよう。金を貯めよう。独立しよう」と固く誓っていたからだ。親父は、商売に熱心で儲けることが上手い。商売を覚えるなら、こういう店の方がいいのだ。
死ぬほど嫌なセールスも
※写真はイメージです (画像素材:PIXTA)
鈴木精米店に勤めるとすぐ、私は米の「競り込み」をさせられた。競り込みとは拡張販売、つまり外交である。午前中は自転車に乗ってご用聞きと配達に飛び回り、午後は競り込みだ。老舗の木塚商店は店の拡張に積極的でなかったから、新しい得意先を取ってくる仕事はなく、競り込みは初めての経験だった。
私はこの競り込みが死ぬほど嫌だった。子どもの頃から口下手で、人前で満足に話をすることができないのだ。手足を動かすことならどんな仕事でも人に負けなかったが、口先一つで顧客を取るような外交仕事は苦手だった。
親父は尻込みしている私を見て、「ご用聞きや配達仕事は誰でもできる。商売はセールスができなければだめだ」と言う。それもそうだと自分に言い聞かせて、「死ぬような思い」で出かけた。2、3回玄関口で引き返したあげく、勇気を奮って飛びこんでみる。「こんちわー」と言うときは、清水の舞台から飛び降りるような気持ちだ。
「こんちわ! お米いかかですか」
「問にあっているよ」
どの家に入っても、この繰り返し。脈のありそうな家にあたっても、きれいな女の子が出てくると、気の小さい私は真っ赤になって口がきけなくなってしまう始末。
1日中足を棒にして歩き回ったあげく、1軒もお得意が取れないまま店に帰ると、
「どこを遊び回ってきたんだ」
と親父がどやしつけ、セールスが苦手な私を意地悪く競り込みばかりに行かせる。
「外交一つできない、でくの坊は、尻でも洗って田んぼで這いつくばっていりゃいいんだ」と、毎日のように面罵される。
私は怒鳴られても、罵られても、歯を食いしばって我慢し、「今にみていろ」と、燃えるような闘志を胸の中にしまっていた。
不思議なもので、不可能に思えることも、その気になってやってみればできないことは ない。あれほど嫌いだった外交も、自分から積極的に歩き回っているうちにお得意が取れ始める。生来の口ベタも挨拶やお世辞の一つくらいは言えるようになり、次、また次と何軒も取れるようになる。そうすると泣くほど嫌いだった外交がそれほど嫌ではなくなり、自分から進んで精を出し、瞬く間に外交の成績は店で一番になった。