第二章 「商売を覚える」
尋常小学校を出て、30銭を懐に丁稚奉公 ~11歳
大正14年、寺島小学校を卒業するとすぐ、深川・清澄町の木塚商店に住み込むため、身の回りのものを詰め込んだ風呂敷包みを抱えて、住み慣れた家を出た。母は、がま口の中に30銭を入れて渡してくれた。生まれてから一度も離れたことのない家だ。さすがに辛かったことを覚えている。
深川まで歩いて行く途中、そのまま引き返してしまいたくなる気持ちに何度もなった。この日は4月1日。花見に出かける家族連れがたくさん歩いている。真新しい中学校の帽子に、金ボタンを光らせて得意そうなやつにも出会う。私は、「今に見ていろ。そのうちに必ず自分で店を持って、何人か人を使う身分になってみせると、自分に言い聞かせた。
深川まで歩いて行く途中、そのまま引き返してしまいたくなる気持ちに何度もなった。この日は4月1日。花見に出かける家族連れがたくさん歩いている。真新しい中学校の帽子に、金ボタンを光らせて得意そうなやつにも出会う。私は、「今に見ていろ。そのうちに必ず自分で店を持って、何人か人を使う身分になってみせると、自分に言い聞かせた。
米問屋、木塚商店の紺色の暖簾をくぐると、私は丁稚小僧になりきることに努めた。初めのうちは、縞の着物に前垂れをかけるのと、「忠どん」と呼ばれるのが気恥ずかしかったが、しばらくするうちにそれも慣れた。
「忠どん、岩本町の渡辺精米店へ2俵届けろ」
「忠どん、風呂場の煙突が詰まっているから掃除しておけ」
「忠どん、船が着いたから、すぐ担ぎに行け」
「忠どん、岩本町の渡辺精米店へ2俵届けろ」
「忠どん、風呂場の煙突が詰まっているから掃除しておけ」
「忠どん、船が着いたから、すぐ担ぎに行け」
番頭や先輩の言うことを、何でも「はい。はい」と良く聞いた。奉公に来た以上、「絶対にクビにならず、年期が明けるまで辛抱しよう」という意地があったからだ。それに、働くことは苦痛ではないし、人よりも余計に働けば早く仕事を覚られる。煙突掃除や便所掃除も丁稚奉公している以上「やらなきゃあいかん」と自分に言い聞かせ、嫌な顔一つしないでした。米を届けろと言われれば、くたくたに疲れていても自転車に飛び乗って走り回った。
白米は1俵16貫だが、問屋が扱うは玄米で1俵18貫だ。小学校を出たばかりの私は、18貫の米俵を担ぐことができない。自転車の荷台に縛り付けても、自転車がひっくり返ると起こすことができなくなってしまう。そこで、自転車はやめてリヤカーに乗せて行くことにした。ところが、届け先で下ろすことができないのだ。番頭は、「向こうの人にかついでもらえばいい」と言うが、私は人の親切をあてにするのが大嫌いだ。担いでみるが、18貫の俵はどうやっても肩に乗らない。腰がよろよろと砕けて、米俵の下敷になってつぶされそうになるだけだ。仕方がないので、1俵を2斗ずつの袋に入れて運ぶようにした。「米屋の小僧が米俵を担げない」と、私は恥ずかしくてたまらなかった。
仕事のかたわら、米俵をかつぐ練習に精を出した。そのかいがあってか、半年とかからないうちに1俵を何とか担ぐことができるようになった。店員たちは、体の小さい私が担いでいるのを見て、「米俵が歩いているのかと思った」などと冷やかしたものだった。
米俵と心中事件
木塚商店は回漕問屋だったから、米を積んだ船が着くと荷揚げにかり出される。これが難しい仕事で、慣れるまでは大変な苦労がいる。深川は「木遺音頭」で知られるように、材木を運ぶ堀割が縦横に通している。この堀割を、米を積んだ艀が入ってくると、「忠どん、船が着いた。すぐ行ってくれ」と、かり出される。重い米俵を担いで艀の舷に渡された板を渡るのが難しく、慣れない者がやると板が上下にしなって揺れ、バネ人形のように放り出されてしまう。ひょいひょいと調子を取ってできるようになるまでは、かなりの熟練を要する仕事だ。
艀からの積み降ろす作業を始めた途端、私は早速失敗を演じた。見様見まねで米俵を担いで渡し板を渡ろうとしたまではいいのだが、途中まで来ると板がバネ仕掛けのように揺れ始め、踊りを踊るようになってしまったのである。私は、堀割の中にザブンと落ちてしまった。もちろん米俵も一緒に、である。とんだ心中事件だ。あまりきれいではない堀割の水もしたたか飲んだ。
艀からの積み降ろす作業を始めた途端、私は早速失敗を演じた。見様見まねで米俵を担いで渡し板を渡ろうとしたまではいいのだが、途中まで来ると板がバネ仕掛けのように揺れ始め、踊りを踊るようになってしまったのである。私は、堀割の中にザブンと落ちてしまった。もちろん米俵も一緒に、である。とんだ心中事件だ。あまりきれいではない堀割の水もしたたか飲んだ。
しかし、水の中に落ちながらも米俵を離さず、あっぷあっぷしながら沈もうとする米俵にしがみついた。玄米1俵は15円する。そんな損害を店にかけたら大変だという心配が、頭のどこかにあったのかもしれない。あるいは、負けん気に燃えていたからかもしれない。早速の失敗で主人から叱られたが、「この男は、どこか見所がありそうだ」と認められたところもあった。
太鼓焼きにも目をつぶって
今で言う初任給、丁稚になりたての給料は、月に1円が相場だった。伸び盛りで食い気は旺盛だから、三度三度当てがわれる飯ではとうてい腹がいっぱいにならない。先輩たちは、焼き芋を買って来ては寝床の中で食っていたものだ。漂ってくる焼き芋の香ばしい匂いを嗅ぐと、腹の虫がぐうぐう鳴り出す。
昼間、使い走りで外へ出ると、太鼓焼きのほかほかした餡子の匂いが腹の虫をかきたてる。熱い鉄板の上に溶かしたメリケン粉を流し込み、黒いあずきの餡子をその上にちょっ、ちょっ、ちょっと落としていく。その上にまたメリケン粉を流してひっくり返す。しばらくすると、狐色にこんがり焼けた太鼓焼きができあがる。できたてを口に頬張ると、熱くて甘い餡子が口の中にはみ出してくる。私はこの太鼓焼きが大好物だった。
しかし、小僧になりたての私は、「買い食いはしてはいけないよ」と主人から言われていた言葉を忠実に守って、生唾を飲み混んで我慢していた。1個1銭の太鼓焼屋の前で、小僧に行くとき母からもらった30銭を握りしめ、買おうかどうしようかさんざん迷ったこともある。結局、太鼓焼きも焼き芋も生唾で我慢して、初めての「藪入り」まで母からもらった30銭には1銭も手をつけなかった。
藪入りとぼた餅の味
浅草広小路雷門通り 大正期
©2021 IMAGINE NET GALLERY
初めての「藪入り」の嬉しさは、今でも忘れることはできない。丁稚奉公には日曜も祭日もない。休暇は年に2回、盆と正月の藪入りだけ。それ以外、病気にでもならなければ家に帰ることは許されない。
奉公に来てから最初の藪入りまでの3か月半、親元を離れたのは初めての経験で、早く家に帰りたくてしようがない。家にいるときは、末っ子で一人息子だから甘えていられる。きっと母さんは、ぼた餅をわんさと作って待っているだろうと、藪入りの日を胸をわくわくさせて待っていたものだ。
奉公に来てから最初の藪入りまでの3か月半、親元を離れたのは初めての経験で、早く家に帰りたくてしようがない。家にいるときは、末っ子で一人息子だから甘えていられる。きっと母さんは、ぼた餅をわんさと作って待っているだろうと、藪入りの日を胸をわくわくさせて待っていたものだ。
藪入りの日、お仕着せを着て新しい麦わら帽子を被って家に帰ると、母はぼた餅だけでなく、私の好物をいっぱいにお膳に並べて、
「さあ、お食べ。昨日の晩から準備して待っていたんだよ」と言う。
ところが、私は箸を取っても喉を通らない。胸がいっぱいでのどを通らないのではない、ぼた餅を食い過ぎて腹がいっぱいなのである。
藪入りの前の晩、店ではぼた餅をたくさん作ったのだが、その残りをあくる日の朝食のお膳に並べ、新入りの丁稚に食えと言う。先輩に、「このぼた餅を食わなければ、家に帰っちゃいけないぞ」と脅され、前の晩に嫌というほど食ったぼた餅を朝飯代わりにも無理やり口に押しこんできたから、母の心づくしのご馳走がどうしても喉を通らない。これほど情ないことはなかった。
「さあ、お食べ。昨日の晩から準備して待っていたんだよ」と言う。
ところが、私は箸を取っても喉を通らない。胸がいっぱいでのどを通らないのではない、ぼた餅を食い過ぎて腹がいっぱいなのである。
藪入りの前の晩、店ではぼた餅をたくさん作ったのだが、その残りをあくる日の朝食のお膳に並べ、新入りの丁稚に食えと言う。先輩に、「このぼた餅を食わなければ、家に帰っちゃいけないぞ」と脅され、前の晩に嫌というほど食ったぼた餅を朝飯代わりにも無理やり口に押しこんできたから、母の心づくしのご馳走がどうしても喉を通らない。これほど情ないことはなかった。
一晩泊るうちに里心がついて、翌日、店に帰るときは嫌で仕方がなかった。少しでも長く家にいたかったから、帰りは市電に乗ることにした。一人で電車に乗るのは生れて初めての私は、まるで田舎から出たての少年のように切符を握りしめていた。店に戻るには深川高橋町で降りればいいのだが、その電車が高橋町で止まるのか不安で仕方なく、手前の森下町で降りて歩いて行った。時間までに帰れなかったら大変だという一心からである。考えてみれば手前で降りなくても、高橋町で止まらなければ一つ先まで行って降りればいいのだが、それほど世間知らずで純情だったのだ。
店に帰ると早速、「忠どん、庭掃除だ」と言いつけられ、着替える間もなく働き始めなければならず、庭掃除をしながら涙がぼろぼろこぼれた。
店に帰ると早速、「忠どん、庭掃除だ」と言いつけられ、着替える間もなく働き始めなければならず、庭掃除をしながら涙がぼろぼろこぼれた。