焼き鳥・鶏料理・鰻(うなぎ)|株式会社鮒忠

第一章 「他人に頼るな」

生まれは深川の酒屋

私は、大正2年3月、東京・深川生まれは深川の酒屋の猿江町で生まれた。姉2人、3人姉弟の末っ子である。生家は、酒の小売屋を営んでいた。父は良く働いたが、その日の商売のあがり全部で呑んでしまうような大酒飲みだった。
当時、東京・下町辺りの酒屋では濁酒を売っていた。今と違って濁酒の販売が公認されていたのである。自家製の密造濁酒はいけないが、たいていの酒屋は濁酒を密造して売り、ボロ儲けをしていた。父も濁酒の密造に手を出したがばれてしまい、税務署の手入れを食う破目になった。密造の大元が手入れを食ったとき、運悪くそこに根本酒店の荷車が置いてあったのだ。
気の弱い父は手入れがあることを聞くと、店の金を懐に突っ込んで家を飛び出し、そのまましばらく姿をくらましてしまった。持っている金を使い果たすまで、いく晩か遊び歩いている間に遊蕩の味を覚えてしまい、それからの父は酒と女に明け暮らすという毎日。放蕩が激しくなるのに比例して、店は急速に傾いていった。それほど大きくもない酒屋がつぶれてしまうまでにいくらもかからない。ほとんど夜逃げ同然で店をたたむと、一家は日暮里の貧民街に引っ越した。

1日12銭でかぼちゃを食い

1日12銭でかぼちゃを食い
酒屋が駄目になってから、父はいろいろな商売に手を出したが一つとして上手くいった試しがなかった。一家の暮らしは、母のか細い腕による針仕事などの内職に頼る他はなかった。
米の飯は滅多に食べることができず、小麦粉を団子にした「すいとん汁」が常食だった。母の内職は、草履の鼻緒を作る仕事をしていた。上の姉が母を手伝って毎日夜更けまで作っても手間賃は12銭、しかも、仕上げた鼻緒を持って日暮里から向島まで歩いて届ける。当時、隅田川に架かっている白髭橋は私橋で、渡るのに往復で2銭。その日稼いだ12銭から嫌でも2銭が消え、残りの10銭で南瓜を買って飯の代わりにするという毎日だったのである。
母は、父とは反対で気の強いしっかり者であった。父が人から金を借りようとすると、
「この人に金を貸しても返せるかどうか、私は責任が持てませんよ」
と、貸主に言っていたのを幼な心にも覚えている。
茨城県の地主の家に生まれ裕福に育った母だが、貧乏になっても愚痴は一度もこぼしたことはなかった。子どもたちの前では決して父を悪く言うことはなく、父として立てるように子どもたちをしつけていた。

正月の足袋が買えない

少年時代腕白で鳴らした第1寺島小学校(現在の1寺小) 少年時代腕白で鳴らした第1寺島小学校
少年時代、向島の寺島町に住んでいたときのことだ。小学校1年の正月だったと思う。元旦は晴着を着て登校するのが慣わしで、私の家は晴着の用意はできなかったが、母が針仕事で得た乏しい収入をやりくりして、新しい下駄と足袋を整えてくれることになっていた。私は、正月が来て、新調の足袋と下駄を履くことに胸をはずませて期待していた。ところが、この小さな期待は無残にも破られてしまったのである。
その頃、父は「肥料屋」をしていた。過燐酸石灰などの化学肥料を、地方の農家に発送して手間賃を稼ぐ商売である。父も正月くらいは何とかしなければと考えたのかもしれない。船橋に行って集金してくれば餅も買えるし晴着も買え、いい正月が迎えられる。しかし、船橋まで行く足代がないと言う。母は、足袋や履物を買うための金を父に渡した。
暮れの30日、船橋までの足代を持って出かけた父は、大みそかになっても除夜の鐘が鳴っても、とうとう帰らなかった。帰って来たのは、正月も5日になってからである。
おかげで、足袋も履物も新調することができなかった。元旦は式があるので登校しなければならないが、友だちがみな晴着を着て喜び勇んで登校する中、新しい足袋さえない私はどうしても学校へ行くのが嫌で、布団にもぐったまま泣いていた。

貧乏と餓鬼大将

ベーゴマ
貧乏は、それほどつらいものではない。腹の減ることがあっても我慢できないことはないが、貧乏から起るさまざまな屈辱感や劣等感は、人一倍負けず嫌いだった私にとって耐え難く、死ぬほどつらい思いをすることがしばしばあった。
そのためか、小学校時代の私は、ひねくれて頑なな少年で友だちと喧嘩ばかりした。体が小さくて痩せていたので、自分より大きな相手には腕や肩に噛みついて放さないという手を使った。近所の子どもや金持ちの同級生をいじめた。近所の子どもたちは私の顔を見ただけで逃げ出すほどで、手のつけられない腕白小僧だと鼻つまみ者になってしまった。
子ども心にもそんな自分を反省するところがあったのか、小学校の上級に進む頃から素行は良くなっていったようだ。腕白ぶりは発揮していたが頑なさは少しずつなくなって、一人もいなかった友だちもできるようになった。餓鬼大将として年上の子どもも家来にすえて威張っていたが、腕白ぶりはだんだん影をひそめて、自分で言うのもおかしなことだが仲間のうちでは人望があった。
私は、ベーゴマやビー玉などの勝負ごとは天才的に強かった。天才的というより、人一倍研究熱心だったのかもしれない。他所の家の使い走りなどをしてもらった駄賃をはたいて、やっと手に入れた一個のベーゴマが私の全財産で、負けてしまえばそれきり買うことができないのだ。だから、どうすれば相手に勝てるか、全知全能をふりしぼって考える。誰に教えてもらうわけでもなく、自分の頭で必死になって考え出したものだ。
勝って得たベーゴマが空箱にいっぱいになるほど貯まると、他の子どもに売ったり、餓鬼大将をしていた私の家来に分けてやったりする。売って得た銭は、買い食いや映画に使った。
駄菓子屋で売っていた、ビリケンの漫画を刷った札を引く懸賞付きの菓子の賞を当てるのも名人だった。一銭払って引き、当たると約10銭の賞品をもらえる。研究熱心だった私は、当たり札のビリケンとはずれ札のビリケンに、よほど注意して見なければわからないくらいの違いがあることを発見した。
それを発見してからは百発百中。駄菓子屋のお婆さんは音をあげて、
「こっちの飴をあげるから、当たりはやめておくれ」
と、私には懸賞をさせてくれなくなってしまったほどだ。

他人に頼るなと母の教え

父は、私が11歳の夏、大正12年に起こった関東大震災を境に、家を出て行ったまま帰らなくなってしまっていた。
母は、「他人には絶対頼るな」というのが信条で、子どもたちにも口を酸っぱくして言っていた。昔、葬式では参列者に饅頭を配る習慣があった。近所の子どもは、葬式があるとお寺へ出かけて行って饅頭をもらってきたものだ。私ももらって来たことがあり、家に帰って母に饅頭を見せるとびっくりするほどの見幕で、
「忠雄、うちは貧乏している。けれど、私はお前を人からただで物をもらうような人間に育てたつもりはない。そんな情けない真似をする子は私の子じゃない」
と、涙を流して叱ったのである。
それから私は、他人から物をもらったり、他人に頼ったりすることを頑なに拒否するようになった。
母は、他人に頼ることが大嫌いで、この点は子どもたちにも厳しかった反面、子どもたちを可愛がることにかけては他所の母親以上であった。

貧乏だけはしたくない

小学生のころ忠雄があこがれたのは人力車の車夫だった 小学生のころ忠雄があこがれたのは人力車の車夫だった
私は、勉強が大嫌いで遊ぶことに夢中だったが、母はうるさく言わなかった。毎日学校が終わると一目散で家に帰って鞄を放り出し、そのまま暗くなるまで遊び歩いた。
その頃、押上辺りの盛り場へ行くと客待ちの人力車がずらりと並び、傍らには紺の法被に腹掛を締めた車夫が、なた豆煙管でスパスパたばこを吸っていた。今で言えば、タクシーの運転手である。
私は、この車夫になりたいと本気で思ったことがあった。腕白小僧で向こうっ気が強かった反面、大変なはにかみやで、授業中に先生に指されても真っ赤になって言葉が詰まって立往生してしまうほどだったから、口をきかなくて済む仕事に就きたいと思っていたのである。
母に、車夫になりたいと話すと、
「どんな仕事でも、人様に迷惑をかけないように働きさえすればいい。私は、車夫の仕事が賤しいと思う訳じゃない。でも、車夫になったら一生人に使われるだけだよ。お前を一生人に使われるだけの人間にしたくはないんだよ」
と言うのである。
私は、どうしても車夫になりたいと思っていたわけではないから、この母の言葉で車夫の夢は願い下げした。
私は、小学校を終えたら工場の職工か、丁稚奉公に行くものだと思っていた。中学に行くことを諦めていたというより、勉強して中学校や大学に進むことなど、少年時代の私の頭には全くなかったと言った方がいい。餓鬼大将で遊びは得意だったが、学校の勉強は苦手だったから、中学に行こうと思っても行けなかったかもしれない。
私にとって出世や偉くなることはどうでもよく、早く一人前になって人に負けない暮らしをすることが唯一の希望で、「貧乏だけはしないぞ」と、密かに心に誓っていた。

大飯食らいだから米屋へ奉公に ~11歳

工場の職工か、商店の奉公人のどちらかというと、私は職工になりたかった。当時の職工の賃金は一日80銭から1円が相場で、月約25円になる。寺島町辺りは化粧品の資生堂をはじめ工場が多く、働いた後は自分の自由だし、家から通えば家の飯が食える。
奉公に行ったら、朝起きてから夜寝るまで、主人や番頭のいいなりに働かなければならない。給料はせいぜい月に1円というと、今の金にして千円くらいのものだろう。小遣いにもならない。その代わり兵隊検査(20歳)まで辛抱して勤めれば、年期が空けて暖簾を分けてもらえる。いわゆる年期奉公というやつである。
母は、
「お父さんのように人を頼ってばかりいては駄目だけれど、何と言っても商売が一番だよ。お前も何か商売を覚えて、地道な暮らしを立てておくれ」と、奉公を勧めた。
「お前は大飯食らいだから、奉公に行ってもすぐに追い出されてしまうよ。お前が勤まるのは、せいぜいお米屋さんくらいかね」と言っていたが、本当に私の奉公先は「米屋」になったのである。深川にいた母の知り合いの口ききで、深川の清澄町にある米の回漕問屋、木塚商店に小僧として住み込むことが決まったのである。