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ブロイラーの解体と流通拠点としての東京工場が完成

地方流通網を積極的に整備し急成長、卸売で業界一位となる

生産流通部門 生産流通部門
こうしてまず生産部門の拡充強化を図った鮒忠はそのスタート後まもなく、流通網、すなわち鶏肉卸売部門の営業網拡充に積極的に取り組んでいった。
食生活の洋風化に伴い、30年代の後半ごろから鶏肉の消費が著しく伸び始めたが、それに応じる生産も急ピッチで行われ、40年代を迎えると、ブロイラー業界に流通革命の動きが出てきていた。
経済の動きには需要と供給の原則がある。ある1つの消費が著しく増大すると、それを供給する側は当然それを充足させるべく、各方面に生産手段の拡大をしていかなければならない。ブロイラー業界がまさにそれであった。消費者に近い側にある大量取り扱い業者は、生産者から消費者にどうしたら中間マージンを減らして、商品を提供できるかの方策を懸命に開発しようとしていた。「流通形態の革命」と呼ばれるものである。
鮒忠としてもそうした業界の動きを無視してはいられない。長い歴史の中で大量仕入れ、大量販売を経営の根元において鶏肉料理を主体にした飲食店経営を推進していたし、また3年ほど前から取り組んできたブロイラーの卸売事業もようやく軌道に乗ったところである。流通革命の動きに対応しそれをもっていっそう経営の飛躍を図らなければならなかった。
足立工場の設備を全面的に更新したのも要はその一貫であった。集荷及び書類機能の強化なのである。次に打つ手は、地方工場の設置によるいっそうの集荷、処理能力のアップと卸売事業の拡大を目的とした営業網の整備にあった。
営業網整備の口火は昭和41年11月、松戸営業所の開設によって切られた。次いで43年8月、岐阜県大垣市に大垣営業所を設置した。これは大垣食鶏業協同組合との業務提携による大垣工場の建設に伴い、同地域へのブロイラー販売を目的に開設したものである。
この年10月には千葉営業所、翌44年には4月に豊橋営業所を、6月に府中営業所を開設した。豊橋営業所は、以前から取引のあった豊橋飼料株式会社との間で合弁会社、丸トポートリー食品株式会社を設立し、豊橋工場を建設したのを機に設置したものであった。
次いで45年11月、千葉県に佐原営業所を開設した。このようにわずか5年あまりの期間に6営業所を設置するという、急速な営業網整備を行っていったのである。45年以降も現在まで山形営業所(47年4月)、甲府営業所(48年12月)、八王子営業所(49年11月)成田営業所(50年6月)、羽生営業所(同年7月)と5営業所の開設をみている。
この積極的な営業網の拡充は、鮒忠の卸売部門の業績を著しく向上させることになった。ちなみにその推移を工場部門の売上高でみると、41年1月期1億4000万円だったものが、42年1月期では3億5600万円、43年1月期6億6700万円、44年1月期12億3200万円、45年1月期18億6900万円と年々倍増の勢いで伸び、50年1月期には58億1900万円に達している。(※当時の決算月は1月)
もちろんこの工場売上には、ブロイラーだけでなくうなぎや焼き鳥、肉だんご(つくね)などの商品も入っているが、主としてブロイラー卸によるものとみてよいだろう。というのはそうしたブロイラー以外の商品のほとんどは鮒忠直営店向けのものであり、50年時点での工場売上に占める直営店関係の売り上げ比率は約10%に過ぎないからである。
そして、この58億1900万円という売上高は、同時点における鮒忠総売上84億2500万円の約70%にあたる実績である。いかにこの10年間における卸売部門の成長が大きく飛躍的であったかが知られよう。
この伸びを支えたものが他でもない、40年を境に拡充した営業網であり、また生産設備なのである。ともかく鮒忠の生産・卸売部門の拡充、強化は昭和40年に打ち出された企業体質改善方針の成果であった。

昭和50年、鶏肉卸市場で業界トップの占有率10%となる

昭和47年4月、山形県上山市に直営の山形工場が完成、直ちに戦列に加わった。ブロイラー業界における流通革命の進展に対処し、地方工場設置策の一貫として建設されたわけだが、同時に卸売部門の急激な伸びを早急にカバーする意味があった。
38年から開始したブロイラーの卸売事業は、40年代に入ってから急速に拡大し、特に東京工場を新築して設備を全面的に更新してからは、営業網の拡充強化とあいまって驚異的ともいえる伸び率を示していた。
たとえば昭和40年時点での鮒忠のブロイラー取扱量は230万羽だったものが、41年度には250万羽、42年度340万羽、43年度590万羽、44年度740万羽、45年度960万羽と年々増大の一途をたどり、山形工場が開設された46年度は実に1300万羽に達した。しかも、この取扱量に占める卸売と鮒忠直営店の消費量の割合の推移は42年度を境に逆転し、いらい卸売の割合は年を追って増大し、46年時点では90%を占めるにいたった。
もちろん、そうした推移をたどるまでには、並々ならぬ苦労があった事は言うまでもない。まだ工場設備と呼べるものもなく、直営店向けの処理加工がほとんどであった第1仕入部、第2仕入部時代に、ただ1人の担当者として卸売部門の開発を手がけ、今日の発展を築く中心的な役割を担ってきた中村常務取締役(当時)は、その苦労を次のように語っている。「33年頃から38年頃までは鶏肉の安定した入荷をはかるように努力した。店舗が急速に増えていた時代であり、ブロイラー生産者の確保が先決だった。毎日それこそ養鶏農家を回って歩いたものである。相場の最低保障を行うという方向を打ち出したこともあって、着々と安定入荷体制ができあがっていった。
ブロイラーの卸売を始めたのは38年頃だったと思う。きっかけは割と単純で、豚肉の卸売が儲かっているのをみてそれなら鳥肉もいけるだろうと始めたのである。もちろんそれまでにも鮒忠は直営店以外にも売ってはいたが、自社消費で余った分をそれにあてるというふうで、力を入れていなかった。それを本格的に始めたのである。しかし卸売にするといっても、他の業者が既にやっている鳥肉店へアタックするのは困難である。そこで豚肉屋へ同じ肉を扱っているのだからと狙いをつけて売り込んだ。また病院やホテル、レストランなど大量にブロイラーを消費する分野へ、積極的にアプローチした。始めた年はそれほど実績が上がらなかったが、2年目からは順調に伸び出した。たまたまその頃から一般家庭の鶏肉消費量が増えていった時期だったことも、タイミング的によかったのかもしれない」
こうして卸売部門の成長により46年度におけるブロイラーの市場占有率は、全国消費量の6%を占めるに至ったのである。
山形工場の稼働がこうした鮒忠の卸売部門、すなわち流通部門の拡充をいっそう強力なものとするのは確実だった。なぜなら、当時の段階で最も近代的な設備を備えていた新鋭工場として建設されたからである。
こうした山形工場の戦力参入もあって、47年以降のブロイラー取扱量はさらに増大し、昭和50年代における実績は約3500万羽となり、全国消費量の市場占有率は実に10%に達した。これは業界トップの取扱量といえる。
ともかく38年に細々とはじまった卸売事業は、約10年を経て、鮒忠の大黒柱として育ったのである。