焼き鳥・鶏料理・鰻(うなぎ)|株式会社鮒忠焼き鳥・鶏料理・鰻(うなぎ)|株式会社鮒忠

根本忠雄「焼き鳥商法」> 鶏の生産~卸売部門の補充強化

鶏の生産~卸売部門の補充強化

仕入部の設置

昭和32年に本格的な仕入れ製造加工
工場が完成、足立工場となる 昭和32年に本格的な仕入れ製造加工
工場が完成、足立工場となる
今日鮒忠を支える主要部門となった生産流通部門は、一口に言うとブロイラーなどの原材料仕入れとその加工、および卸売を行う部門だが、その前身である仕入部ができたのは昭和28年12月であった。
昭和25年に飲食店経営を始めて以来、28年夏までに鮒忠は8支店を続けざまに出店したのだが、そうなると問題になるのが仕入れである。
商品の中心である鶏肉はもとよりその他の材料も、支店の拡張にともなって著しく増大した。それまでは第一支店の別館を仕入れ部門とし、そこで本店はじめ各支店に必要な材料の仕入れを行い、また同時に加工、調理をしていたのであるが、従来の場所は手狭になっていった。
そのうえ「浅草」と言う場所は、ブロイラー(食用鶏)の材料仕入れ部門としては立地的にあまり良いとはいえなかった。ブロイラーをはじめ、うなぎなどの材料の出荷地は東京にはほとんどなく、近くても埼玉県や千葉県、茨城県などの東京周辺地域だった。
支店拡張とともに材料の仕入れ量が多くなり、必要な量をできるだけ安く入手するには従来のように業者が納入するのを待つというやり方ではうまくいかなくなってきたのである。
そこで鮒忠は、仕入れ部門の整備に着手した。
まず足立区保木間の日光街道沿いに店舗を一軒借り、そこに第一仕入部を設けた。
保木間は日光街道の都心への入り口であり、埼玉県や栃木県方面のブロイラー業者の流通経路にあたる場所で、第一仕入部の設置は都心への入り口で材料の必要量を押さえようという狙いがあった。
続いて30年12月には第二仕入部を中山道沿いの戸田橋に設けた。この時点で支店数は15店に増え、第一仕入部だけでは必要量の調達が難しくなったための開設だった。
戸田橋を選んだのは保木間と同様に、埼玉、群馬方面のブロイラーの流通経路にあたったからである。
こうして仕入部が発足するもその2年後には支店が25店となり、さらなる仕入れ拡充に迫られた。
そして昭和32年、現在の東京工場がある保木間に足立工場、埼玉県には浦和工場、と本格的な仕入れ、製造工場を設けた。
足立工場は昭和41年の増改築を経て、43年に東京工場と名称を変更。
現在も事業を支える大きな柱である生産流通本部の芽は、こうして昭和28年に仕入部として生まれたのである。

足立工場の設備全面更新へ

生産流通部門 創業20周年の記念式典を兼ねて、新装なった足立工場の竣工式と社長の胸像の除幕式が行われた
昭和30年代の高度成長下、飲食店部門の事業が急速に伸びていた頃、同時に鮒忠は直営店以外への卸売事業の拡充強化を積極的に進めていった。
昭和38年ごろからはブロイラーの中間卸が急激な成長を示すようになる。
取扱需要の大幅な拡大にともなって、工場設備の思い切った更新が必要となった39年後半から40年にかけて、日本経済が証券不況に突入した。
だがむしろ激動の40年代を乗り切るために『経営の変化』を基本方針として打ち出していた折、『不況』はその決意を促すインパクトとなり『工場の全面拡充強化』に踏みきる絶好のタイミングと判断を下したのである。
足立工場はその稼働を継続しながら、 第一段階として冷蔵庫を建設、次いで処理加工工場の建設、最後が作業場の建設という計画でその完了時期は4年後の43年春と決定した。
昭和40年5月、足立工場の全面更新工事が開始され、計画に沿って11月に冷蔵庫が完成した。冷凍能力、保管能力において最新鋭の総自動式冷蔵庫は、処理した鶏を凍らせ貯蔵保管する、その全てがボタン1つで行えるという業界一の冷蔵設備であった。
次いで41年9月に、処理加工工場が完成した。鉄筋作り辺250坪(約825平米)の建物で、コンベヤーシステムを導入した最新鋭の設備で1時間あたり1200羽の鳥を解体処理することができる工場となった。
創業20周年を迎えた節目と重なり、工場の落成式は10月31日に創業記念式典を兼ねて、足立工場で行われた。
この日を回顧して根本社長は「よくここまできた、という感慨はもちろんあったが、一方で鮒忠の発展はこれからなんだ、いまが大事なのだ、と新たな決意をしたことを憶えている」と語った。
この社長の決意を表すかのように、足立工場の処理加工場は、この日、社長の手で創業スイッチが入れられ、力強く稼働開始したのであった。
足立工場改造の最後の段階にあたる作業場は、昭和43年5月に完成した。
1階がシュウマイ工場、うなぎ処理場、倉庫、事務所で、2階が社員寮。
これによって足立工場の全面更新は当初の計画通り実現したのである。
ともかく鶏の解体作業(バラシ)から処理加工、そして冷凍、保管、配送という一貫したシステムによる近代工場は業界でも初めてのものであった。
その処理加工は1日あたり食鳥解体2万羽、焼き鳥2万本、うなぎ処理1トン、鶏だんご1トン、シュウマイ、肉まん製造…などであった。
設備投資は1億5千万円にのぼったが、その後の急速な鮒忠の拡大発展を力強く支え、文字通り『礎』となったのである。