第七章 「鮒忠創業 発展の歩みの中で」
一日3,000羽以上販売「東京名物 鶏の丸むし」〜こんなに安くては割に合わない
~38歳~ 昭和26年
社長創案のひな鳥の丸むし焼が大ヒット。連日満員の本店風景
今でも鮒忠の看板商品である「鶏の丸むし」は、昭和26年頃から本格的に始めた。吉原で1本10円の焼き鳥が飛ぶように売れて、手間が間に合わないほどになった。鶏をバラすのは、熟練者でも1日40羽くらいがせいぜいだ。その上、串にさして焼くのだから、1人や2人では間に合わなくなる。人を雇えば手間賃がかさむ。原価ギリギリで安く売っていたから、手間賃がかさんだのでは勘定が合わなくなる。
そこで考えたのが「鶏の丸むし」だ。丸ごとむし焼きにするのだから、調理の手間がかからない。戦争で中国に行ったとき、よく食べた鶏の丸焼きがヒントだった。鶏は無駄なところがなく、丸ごと焼いた方が旨いし栄養価も高い。
そこで考えたのが「鶏の丸むし」だ。丸ごとむし焼きにするのだから、調理の手間がかからない。戦争で中国に行ったとき、よく食べた鶏の丸焼きがヒントだった。鶏は無駄なところがなく、丸ごと焼いた方が旨いし栄養価も高い。
しかし、初めのうちはさっぱり売れなかった。仕入れ原価ギリギリで売るのだが、元値があまり安くないから難しい。1日3羽くらい出ればいい方だった。とにかく、お客に認められるまでは持久戦でやっていこうと諦めなかった。
そこへ、昭和25年6月に始まった朝鮮動乱で、米軍用に特需のブロイラーが作られるようになり、昭和26年頃には、生産過剰になったブロイラーが1キロあたり100円程度まで下がった。この安いブロイラーを仕入れて丸むしにして売り出したところ、大ヒットしたのである。
そこへ、昭和25年6月に始まった朝鮮動乱で、米軍用に特需のブロイラーが作られるようになり、昭和26年頃には、生産過剰になったブロイラーが1キロあたり100円程度まで下がった。この安いブロイラーを仕入れて丸むしにして売り出したところ、大ヒットしたのである。
「果然食通界にヒット」のポスターの前で丸むし焼の目方はかりに忙しい
利は薄く、大衆奉仕主義だったから、仕入れ値が安ければそれだけ値段も下げて売り出すのでお客も喜んでくれる。
「こんな安く売ったんでは、合わないんじゃないですか」と忠告する人もいたが、私は、商目先だけ儲かればいいというものではないと固く確信していたから、値段は動かさなかった。米屋商売の感覚がしみついていたのかもしれない。
米屋は「材料」を売る商売だ。丸むしも「料理」を売るというより、材料を売るという感覚だった。一品いくらではなく、150円もあるし200円のもある。目方で材料を売るという考え方だった。
丸むしは、今では東京名物になって、1日3,000羽も出る。文字通り看板商品になった。
「こんな安く売ったんでは、合わないんじゃないですか」と忠告する人もいたが、私は、商目先だけ儲かればいいというものではないと固く確信していたから、値段は動かさなかった。米屋商売の感覚がしみついていたのかもしれない。
米屋は「材料」を売る商売だ。丸むしも「料理」を売るというより、材料を売るという感覚だった。一品いくらではなく、150円もあるし200円のもある。目方で材料を売るという考え方だった。
丸むしは、今では東京名物になって、1日3,000羽も出る。文字通り看板商品になった。
創業期のエピソード
昭和25年 鮒忠第1支店誕生。「鮒忠 別館」
浅草千束通りに本店を開設し、その年の11月に元本社所在地へ支店第1号を作ったのを皮切りに、昭和30年までの約5年間に鮒忠は15の支店を次々に開設した。年次をってそれを拾うとまず26年に馬道店(第2支店)、27年に三ノ輪店(第3支店)、28年に寿町店(第4支店)、稲荷町店(第5支店)、南千住店(第6支店)、三越地下店(第7支店)、向島店(第8支店)、29年に浅草国際店(第9支店)、新宿店(第10支店)、日本橋室町店(第11支店)、深川須崎店(第12支店)、30年に千駄木店(第13支店)、新宿柏木店(第14支店)、北千住店(第15支店)という具合である。
年平均3店、最も多い28年には1年間に5店舗の支店を開設している。これでもわかるように創業期から順調に支店を急拡大していった。
この急速な店舗展開について根本社長が次のように説明している。「飲食店を始めてから、私は自分の商売に対する考え方、難しく言えば経営哲学というのだろうが、それが間違ってはいないのだと確信を強くした。若いころの米屋商売、そして露天商、業商を通じて“利は薄く大衆奉仕”の主義で行けば必ずやお客の支持が得られるという商売哲学である。
飲食店を始めた時にもその主義を思い切って貫いた。その結果、お客は鮒忠を支持してくれた。予想以上に繁盛したのだ。そこで私は、この商売感覚で店を出していけば絶対に間違いないと確信を持ち、28年ごろから次々と出店したのである。
支店の拡張、すなわち事業の拡大に従って、鮒忠の従業員もどんどん増えていった。事業を行うには人、モノ、カネの3要素が大切だといわれるが、中でも人が最も重要なものと言える。モノやカネがあっても、それを運用、拡大する肝心の人がいなければ何もできない。鮒忠ではこの支店の拡張期、従業員をどんどん採用していった。朝鮮動乱の特需景気があったとはいえ、戦後もまだ5、6年のその頃は労働力はかなり余っており、働き場所を選ぶなどはもちろん、どんな仕事でもあれば良い方といった社会情勢だった。そんなわけで鮒忠の場合も、人手確保には当時まったくといってよいほど苦労することがなかった。1店舗平均4人ほどの人手が必要なわけだから、昭和28、9年頃の鮒忠の従業員数は支店だけでも60人前後を数えていた。必要であれば何人でも充足することができた時代背景だった。
こうして鮒忠は従業員を増やし積極的に支店を作っていったわけだが、その支店拡張には「のれん分け制度」と言うユニークな方法を用いた。こののれん分けという方法は、江戸時代の昔からわが国の商家でとられていた制度で、連休明けの奉公人に主人が独立の援助をし、店の看板、すなわちのれんの使用を許すというものである。戦前まではこの制度が商家には、まだかなり残っていて、根本社長も米屋奉公時代には、1日も早くのれん分けの独立をしたいものと、年季明けを楽しみに働いたことは、すでに前章に述べたとおりである。
こののれん分け制度を鮒忠は、支店拡張策に取り入れたのである。根本社長が自分の米屋丁稚時代の体験を活かしたわけだが、そもそもの発想は「人使い」と言うことについての考え方に由来する。
根本社長はのれん分け制度の採用について「支店を作るのには人が必要だ。飲食店を始めて店がだんだん繁盛し、店員も増えていくにつれて、私は人の使い方について考えた。かつて米屋の丁稚奉公時代には、経営者だけがいい思いをして、働くものはいっこうに恵まれないため、ずいぶん辛い思いをしたものだ。もし将来、自分が人を使うようになったら、ぜったいに自分だけが良い思いをするようなやり方はしないぞ、と子供心にも痛感していたことを、私は忘れなかった」
「働いている人間も、やはり将来に望みがなくては熱心に働く気にならない。将来のない仕事ほど、やる気をなくさせるものはない。商売を大きく発展させる事は自分のためでもあるが、そこで働く従業員のためにならなくてはダメなのだ」
「このことは結局、従業員の将来を考えてやるのがいちばん大事ではなかろうか。それには何年かいたものには支店を分けてやることだ。これが、いうならばのれん分け制度であった」と説明している。
のれん分けといっても昔のものとは内容が異なる。支店を開設すると、それに投じた資金を2年間で回収するのを基本としたものだった。そして何年か働いてる従業員を支店長に任命し、最初の2年間に出した利益で支店開設の資金を償却すれば後はその支店は支店長のものになる、と言うシステムであった。
“2年経てば店が自分のものになる”と考えれば店長は張り切らざるを得ない。朝早くから夜遅くまでがむしゃらに働くわけである。すべての支店をのれん分けシステムで出店したわけではないが、この制度を完全に廃止した昭和32年までに、のれん分けで独立を果たしたものは8人ほどいた。
この急速な店舗展開について根本社長が次のように説明している。「飲食店を始めてから、私は自分の商売に対する考え方、難しく言えば経営哲学というのだろうが、それが間違ってはいないのだと確信を強くした。若いころの米屋商売、そして露天商、業商を通じて“利は薄く大衆奉仕”の主義で行けば必ずやお客の支持が得られるという商売哲学である。
飲食店を始めた時にもその主義を思い切って貫いた。その結果、お客は鮒忠を支持してくれた。予想以上に繁盛したのだ。そこで私は、この商売感覚で店を出していけば絶対に間違いないと確信を持ち、28年ごろから次々と出店したのである。
支店の拡張、すなわち事業の拡大に従って、鮒忠の従業員もどんどん増えていった。事業を行うには人、モノ、カネの3要素が大切だといわれるが、中でも人が最も重要なものと言える。モノやカネがあっても、それを運用、拡大する肝心の人がいなければ何もできない。鮒忠ではこの支店の拡張期、従業員をどんどん採用していった。朝鮮動乱の特需景気があったとはいえ、戦後もまだ5、6年のその頃は労働力はかなり余っており、働き場所を選ぶなどはもちろん、どんな仕事でもあれば良い方といった社会情勢だった。そんなわけで鮒忠の場合も、人手確保には当時まったくといってよいほど苦労することがなかった。1店舗平均4人ほどの人手が必要なわけだから、昭和28、9年頃の鮒忠の従業員数は支店だけでも60人前後を数えていた。必要であれば何人でも充足することができた時代背景だった。
こうして鮒忠は従業員を増やし積極的に支店を作っていったわけだが、その支店拡張には「のれん分け制度」と言うユニークな方法を用いた。こののれん分けという方法は、江戸時代の昔からわが国の商家でとられていた制度で、連休明けの奉公人に主人が独立の援助をし、店の看板、すなわちのれんの使用を許すというものである。戦前まではこの制度が商家には、まだかなり残っていて、根本社長も米屋奉公時代には、1日も早くのれん分けの独立をしたいものと、年季明けを楽しみに働いたことは、すでに前章に述べたとおりである。
こののれん分け制度を鮒忠は、支店拡張策に取り入れたのである。根本社長が自分の米屋丁稚時代の体験を活かしたわけだが、そもそもの発想は「人使い」と言うことについての考え方に由来する。
根本社長はのれん分け制度の採用について「支店を作るのには人が必要だ。飲食店を始めて店がだんだん繁盛し、店員も増えていくにつれて、私は人の使い方について考えた。かつて米屋の丁稚奉公時代には、経営者だけがいい思いをして、働くものはいっこうに恵まれないため、ずいぶん辛い思いをしたものだ。もし将来、自分が人を使うようになったら、ぜったいに自分だけが良い思いをするようなやり方はしないぞ、と子供心にも痛感していたことを、私は忘れなかった」
「働いている人間も、やはり将来に望みがなくては熱心に働く気にならない。将来のない仕事ほど、やる気をなくさせるものはない。商売を大きく発展させる事は自分のためでもあるが、そこで働く従業員のためにならなくてはダメなのだ」
「このことは結局、従業員の将来を考えてやるのがいちばん大事ではなかろうか。それには何年かいたものには支店を分けてやることだ。これが、いうならばのれん分け制度であった」と説明している。
のれん分けといっても昔のものとは内容が異なる。支店を開設すると、それに投じた資金を2年間で回収するのを基本としたものだった。そして何年か働いてる従業員を支店長に任命し、最初の2年間に出した利益で支店開設の資金を償却すれば後はその支店は支店長のものになる、と言うシステムであった。
“2年経てば店が自分のものになる”と考えれば店長は張り切らざるを得ない。朝早くから夜遅くまでがむしゃらに働くわけである。すべての支店をのれん分けシステムで出店したわけではないが、この制度を完全に廃止した昭和32年までに、のれん分けで独立を果たしたものは8人ほどいた。
現在もそれらの一部の店は50年以上歴史を引き継ぎながら営業し、当社との協力体制をとっているのである。
のれん分け独立制度当時の様子
昭和33年浅草国際劇場前に開店した第9支店「国際店」
どんな企業でもそうだろうが、創業期は苦難の連続であり、またそれだけに人間くさいエピソードが数多くあるものだ。鮒忠の場合もそうであった。いまでこそ近代的なビルを要し、組織も大きくまた複雑に細分化され、事業も多様化し、同業者で比較してもトップにする鮒忠だが、経営が安定し組織の近代化に着手する昭和30年位前は、まさしく個人商店の域を一歩も出ない営業状態であった。
支店がどんどんふえていた昭和30年前後の鮒忠は、根本社長以下全従業員が朝から晩までがむしゃらに働くだけの職場だった。
そうした当時の従業員として働き、のれん分け制度によって独立した方たちの話から、自然に当時の鮒忠の様子がしのばれてくる。
「うちの支店ができたのは27年だったと記憶しています。私が入った頃の鮒忠は、社長以下何人も従業員がいなくて、それこそ小さな店でした。給料はたしか1ヵ月1000円ぐらいだったと思うが、朝から晩までうなぎを割いたり、鳥をバラしたりで忙しく、給料を使うひまもなかった。社長は口やかましいほどではなかったが、よく怒鳴り飛ばされました。今でも社長の前に立つと体が引き締まります」「あの頃は朝早くから夜中までともかくよく働いた。まだ10代という若さのせいもあるが、疑問にも思いませんでした。何しろ社長はじめ全員が毎日そうやって働いていたんですから。のれん分けの話を聞いたのがいつだったか忘れましたが、一生懸命やれば自分の店が持てるのだなぁ、とは思いましたね。いま思えばそんなに忙しく働いても誰一人として不平を言わなかったのは社長の人柄だったといえますよ。自分で店を持ってみて一層そのことを感じました」「店を預けられたのは29年だったと思います。当時の支店長は毎日その日の売り上げをカバンに入れて夜中、店を閉めてから社長の待っている本店に届けに行ったものです。社長は本店のレジの前に座って支店長を待っているわけですが、その日の売り上げが少ないときには本店までの道のりが、ばかに遠く感じられたものです。多いときにはその逆で張り切って行きました。」「入社したころは今のように組織も、担当も特別にないから、何でもやりましたね。うなぎを割いたり、鳥をバラしたり焼いたり。うなぎを割くといえば、1日中うなぎを割いているわけです。だから覚えこむのは早かったですね。別館の2階が寮になっていて、帰るとバタンキュー。そして朝になればまたうなぎ割き。こんな生活から次第に仕事を覚え、商売のやり方を覚えるわけです。その意味で貴重な体験をしています。」
支店がどんどんふえていた昭和30年前後の鮒忠は、根本社長以下全従業員が朝から晩までがむしゃらに働くだけの職場だった。
そうした当時の従業員として働き、のれん分け制度によって独立した方たちの話から、自然に当時の鮒忠の様子がしのばれてくる。
「うちの支店ができたのは27年だったと記憶しています。私が入った頃の鮒忠は、社長以下何人も従業員がいなくて、それこそ小さな店でした。給料はたしか1ヵ月1000円ぐらいだったと思うが、朝から晩までうなぎを割いたり、鳥をバラしたりで忙しく、給料を使うひまもなかった。社長は口やかましいほどではなかったが、よく怒鳴り飛ばされました。今でも社長の前に立つと体が引き締まります」「あの頃は朝早くから夜中までともかくよく働いた。まだ10代という若さのせいもあるが、疑問にも思いませんでした。何しろ社長はじめ全員が毎日そうやって働いていたんですから。のれん分けの話を聞いたのがいつだったか忘れましたが、一生懸命やれば自分の店が持てるのだなぁ、とは思いましたね。いま思えばそんなに忙しく働いても誰一人として不平を言わなかったのは社長の人柄だったといえますよ。自分で店を持ってみて一層そのことを感じました」「店を預けられたのは29年だったと思います。当時の支店長は毎日その日の売り上げをカバンに入れて夜中、店を閉めてから社長の待っている本店に届けに行ったものです。社長は本店のレジの前に座って支店長を待っているわけですが、その日の売り上げが少ないときには本店までの道のりが、ばかに遠く感じられたものです。多いときにはその逆で張り切って行きました。」「入社したころは今のように組織も、担当も特別にないから、何でもやりましたね。うなぎを割いたり、鳥をバラしたり焼いたり。うなぎを割くといえば、1日中うなぎを割いているわけです。だから覚えこむのは早かったですね。別館の2階が寮になっていて、帰るとバタンキュー。そして朝になればまたうなぎ割き。こんな生活から次第に仕事を覚え、商売のやり方を覚えるわけです。その意味で貴重な体験をしています。」