第七章 「鮒忠創業 発展の歩みの中で」
飲鮒忠本店を2階建てにして惣菜中心から飲食店開業。飛躍期に。
~37歳~ 昭和25年
昭和26年正月、本店前に勢揃いした従業員。のれん分けで独立した人たちの顔も見える
創業時おかみさんとして、接客していた妻・てい
創業時おかみさんとして、接客していた妻・てい
私は、借金政策ができない性分だったから、借りた金で店の拡張はしない。しかし、少しずつ貯めた資金をもとに、「時節さえくればやってみせるぞ」と考えていた。焼け野原だった千束町界隈も立派な商店街になった昭和25年、その時節がやって来たと感じた。麺類やパンが自由販売になり、飲食店が米飲を扱うのもそのうち認められるだろうという頃だ。資金もかなり貯まり、まず店の増築にかかった。
義兄と5,000円ずつ出し合って手に入れた土地は、半分は姉が店を出し使っている。買ったときの50倍の25万円で買い戻した。姉には、近くに40坪ほどの手頃な土地があったので、そこを買って提供した。有り難いことに、私たち姉弟は、お互いに苦労をしつくして育ったせいか、大人になってからも万事協力的で、こんなときにもごたごたするどころかお互いに励まし合ったものである。
義兄と5,000円ずつ出し合って手に入れた土地は、半分は姉が店を出し使っている。買ったときの50倍の25万円で買い戻した。姉には、近くに40坪ほどの手頃な土地があったので、そこを買って提供した。有り難いことに、私たち姉弟は、お互いに苦労をしつくして育ったせいか、大人になってからも万事協力的で、こんなときにもごたごたするどころかお互いに励まし合ったものである。
こうして37坪5合の土地に目一杯に2階建ての店を建てた。1階は、これまで通り焼き鳥、鶏肉、蒲焼き、どじょうなどを売り、2階は飲食店にした。店員は8人である。
飲食店を始めてから、鮒忠の売り上げは飛躍的に伸びた。焼け跡にバラックを建てて惣菜屋のような商売をしていた間を雌伏期とするならば、昭和25年に飲食店を始めてからの鮒忠は、雄飛期に入ったと言えるだろう。それまで焦らず、時節の到来を待っていた私の判断に狂いはなかったと思う。
飲食店を始めてから、鮒忠の売り上げは飛躍的に伸びた。焼け跡にバラックを建てて惣菜屋のような商売をしていた間を雌伏期とするならば、昭和25年に飲食店を始めてからの鮒忠は、雄飛期に入ったと言えるだろう。それまで焦らず、時節の到来を待っていた私の判断に狂いはなかったと思う。
2年で独立できる暖簾分けシステムをつくり、支店拡張
昭和26年にのれん分け第一号になった『馬道店』。
平成30年から直営店になり、浅草花川戸店として70年をこえる歴史を引き継いでいる。
平成30年から直営店になり、浅草花川戸店として70年をこえる歴史を引き継いでいる。
店を増築し、飲食店を始めてからの鮒忠は、とんとん拍子に発展した。その頃、本店の場所が都市計画で道路に取られそうだという。せっかく軌道に乗りそうな店がパーだ。そこで、今のうちに代わりの店を作っておかねばと考えた。折も良く、近いところに見つけた坪5,000円、建物付きの50坪の土地を手に入れ、「鮒忠別館」と名付けて開店した。これが支店の始まりである。今その場所は、本社ビルになっている。
飲食店を始めて店がどんどん繁盛し、店員増えていくに従って、私は「人使い」についてよく考えた。米屋の丁稚奉公時代は、経営者だけがいい思いをして、働く者は一向に恵まれないため辛い思いをしたものだ。自分が人を使うようになったら、「絶対に自分だけいい思いをするようなやり方はしないぞ」と子ども心に痛感していたことを忘れなかった。
働いている人間も、将来に望みがなくては熱心に働く気にならない。従業員の将来を考えてやるのが一番大事だと考えた。それには、何年か働いた者に支店を分けてやることだ。
始めは、支店を開設すると、投じた資金を2年間で回収するのを建前とした。何年か働いた従業員を支店長に任命して、2年間に出した利益で支店開設の資金を償却すれば、あとは自分のものになるというシステムだった。数年の間に支店が8軒ほどできた。支店を任された店長は、2年もすれば店が持てると、朝早くから夜遅くまでがむしゃらに働いたものだ。
始めは、支店を開設すると、投じた資金を2年間で回収するのを建前とした。何年か働いた従業員を支店長に任命して、2年間に出した利益で支店開設の資金を償却すれば、あとは自分のものになるというシステムだった。数年の間に支店が8軒ほどできた。支店を任された店長は、2年もすれば店が持てると、朝早くから夜遅くまでがむしゃらに働いたものだ。