焼き鳥・鶏料理・鰻(うなぎ)|株式会社鮒忠焼き鳥・鶏料理・鰻(うなぎ)|株式会社鮒忠

第六章 「再びゼロからの出発」

浅草、千束町に本拠を、鮒忠本店の誕生 ~33歳~ 昭和21年9月

浅草、千束町に本拠を、鮒忠本店の誕生 ~33歳
主食の米は遅配欠配が続き、高いヤミ米を買わなければ生きていけない。行商に精を出して日銭を稼いでいた私は、何とか食うには困らなかったが、資金を貯めるどころか高いヤミ米を手に入れるのが精一杯だ。汗水たらして1,500円貯めたと思っても、米が一斗1,000円もする。
親子4人が食っていくのに必死だった。女房も2人の子どもを食わせるために、毎日のように買出し列車で食糧の買出しに行く。焼け跡で作ったカボチャを「すいとん汁」にして食うこともある。
食う方も大変だったが、「住い」も大変だった。2人の姉の家族と、わずか10坪のバラックに3世帯20人が住んでいるのだから、満員電車で寝起きしているようなものだ。とにかく、どんなに小さくてもいいから家を持ちたいと思ったが、その頃、建築費は非常に高く、親子4人が住める家を建てるのは大変なことだった。
確か、8月の末だったと思う。東京都が罹災者用に配給する組立バラックの抽選に運良く当たった。値段は4,000円、封鎖預金で買えるという。次は土地探しである。初めは、故郷であり、ずっと商売をしていた向島で手頃な土地を探し始めたが、復興が遅く思わしい場所がなかなか見つからない。
どじょうの行商をしながら気がついたことだが、千住と下谷、浅草辺りとでは商売の勢いが全く違う。千住辺りで商売していると、たいていのお客が、その時分の金で100匁20円のどじょうを、「10円くれ」「20円くれ」といった程度だが、浅草・下谷辺りへ来ると、「100円くれ」「200円くれ」というお客がざらである。それほど離れていない千住と浅草で、これだけ客層が違う。
そこで、向島はやめて思いきって浅草に出ようと決心した。地価は浅草も向島もほとんど変わらない。坪200円くらいだ。浅草界隈の土地を探すと、千束町に手頃な土地が見つかった。37坪5合、坪250円で、手数料その他を含めて約1万円あれば手に入る。行商で稼いだ金をやり繰りして、何とか5,000円は工面ができたが、あと半分足りない。
「浅草にこういう土地があるが、ぼくにはどうしても半分しか金がない。あと半分の土地を買ってくれないか」と、姉の亭主に相談を持ちかけるが、気乗りしない返事だ。
しかし、この機会を逃がしたら、せっかく当たった組立バラックの配給権もふいになるし、としつこく頼むと、とうとう根負けして5,000円出すことを承知してくれた。
こうして千束町の一角に37坪5合の土地を手に入れ、6坪5合の組立バラックを建てることとなった。
組立式の粗末なバラックだから、大工2人、2日間で出来上がってしまった。それでも配給の焼酎2合に、露店で買ったいわしのバター焼10円を買って来て、ささやかに祝ったものだ。
これが今の鮒忠本店の創立である。昭和21年9月15日だったと記憶している。

第七章 「鮒忠創業 発展の歩みの中で」

鮒忠創業期、冬場のつなぎに始めた鳥生肉、そして「焼き鳥」販売へ
~33歳~ 昭和21年11月

建物が出来、鮒忠の看板をかけて開店したものの、周りは焼け野原でお客など来るわけはない。今でこそ繁華な商店街になっているが、その頃の千束町は焼け跡にぽつぽつとバラックが建っている状態で、今日は人が何人通ったといったほどであった。
開店した日の売り上げは、80円ほどだった。行商をしているときに比べると、全く売れたうちに入らないくらいの金額である。行商をやればいくらでも売れるという自信がある。店は女房に留守番をさせ、翌日からどじょうの行商に歩いた。朝7時、千住に行ってどじょうを仕入れ、自転車に積んで稲荷町から神吉町、鳥越、下谷の竹町、長者町辺りをぐるっと回って売りさばき、夕方に帰ってくる。
帰ると、女房がうなぎの串焼きを作って待っている。晩飯を大急ぎで済ませると、その串焼きを持って目と鼻の先の吉原へ売りに出るのだ。吉原も丸焼けになったが、ぽつぽつと女郎屋が建ち始め、赤線は繁盛していたので、うなぎの串焼きもよく売れたものである。
本店で焼き鳥を焼く、根本忠雄 本店で焼き鳥を焼く、根本忠雄
冬が来ると、商売も壁にぶつかった。11月、12月になると、うなぎやどじょうの仕入れができなくなってしまうのである。
どじょうは養殖のできない魚で、冬場になると穴にもぐってしまい思うように捕れない。旬は6月から秋にかけてだ。うなぎは養殖できるから、最近では1年中出回っているが、終戦直後の当時はほとんど天然うなぎを使っていた。ところが、うなぎも冬になると捕れないのである。
「冬場をしのぐ商売はないものか」そこで考えついたのが鶏である。鶏なら冬はもちろん、夏場も商売になる。今でこそ鮒忠は、鶏の丸むしや焼き鳥が商売の本命になっているが、初めは冬場のつなぎにと考えて手がけたのだ。
もちろん鶏肉を手がけるのは、初めての経験だ。丸ごと仕入れた鶏をどうやってバラしたらいいか見当もつかなかったが、見様見まねでやっているうちに何とかこなせるようになった。
最初は生肉を売って歩いた。手間賃だけでも出ればいいだろう、原価でも構わないと思っていた。ところが、いくら安くてもなかなか売れない。
「この肉、猫の肉じゃないの」という人もいるし、「50円なら3つ買ってもいい」などと馬鹿にするのもいる。冗談じゃない、100円の鶏肉の原価が90円しているのである。儲けがなくてもいいからと一生懸命売って歩くのだが、ちっとも売れない。生肉を買って自分で料理するのは面倒くさいからだろうと考えて、試しに焼き鳥にして売ってみた。
これが思いのほか好評で、1本10円の串ざしの焼き鳥が良く売れるのである。
「ちょいと、焼き鳥屋さん。20本ばかり置いていってくださいな」といった調子で繁盛した。吉原は夜が遅いから、夜中の2時、3時頃まで女房と2人、焼き鳥を焼いては売って歩いたものである。
こうして冬をしのぎ、どじょうやうなぎのシーズンになる。その頃には周囲の焼け跡にも家が建ち並び始めて町らしくなり、店にも少しずつお客が来るようになった。行商も辞めなかったが、周囲が復興するに従って、だんだん店の売り上げが大きくなっていった。
開店してから1年目は、月の売り上げが約1万円になっていた。どじょうやうなぎのほか、鶏肉や鶏卵、焼き鳥などを置いて、惣菜屋といった方がふさわしい店だった。1万円売れて喜んでも、インフレに次ぐインフレで物価はどんどん高くなっていったから、砂糖や醤油を仕入れると、金は羽が生えたように飛んでいってしまう。インフレが落ち着く2、3年の間は、金を残すことよりも、無事に商売を続けていく方が大事だった。
時期が来れば、ここは必ず大きな商売ができる場所になるだろうと、私は確信を持っていた。だから、目先さえ儲かればお客のことはどうでも良いなどという考えは絶対にいけないといい聞かせ、商売を続けた。「暴利をむさぼってはいけない。米屋商売の感覚で、儲けは少なくても数でこなそう」という方針だった。