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第六章 「再びゼロからの出発」

焼け跡で家族と再会 ~33歳

鮒忠創業当時の荒廃した浅草 鮒忠創業当時の荒廃した浅草
終戦後まもない東京は、文字通り焼け野原であった。昭和21年4月3日、復員船で浦賀に着いた私は、その日のうちに東京に帰って来た。上野駅に降りると、地下道には浮浪者が群がり、駅前から広小路にかけては闇市が大盛況。いかの丸煮や、得体の知れない肉の煮込みを食わせる食い物屋、鉄かぶとを改造した鍋や釜を売る店、米軍の毛布やズボンを売る店など、露店が所狭しと立ち並んでいる。道を行く人は皆、栄養の悪い青い顔をしている。こちらも復員帰りで、骨と皮ばかりの幽霊のようだ。
私は、家族が住んでいるはずの小松川に向かった。家族は私の応召後、ほどなく店を畳んで小松川にある女房の実家に身を寄せていた。予想していたよりもはるかにひどい焼け野原の東京を見て半分あきらめていたが、栄養失調の足をひきずりながら、近所で教えてもらった足立区の家族のもとにたどり着いた。
女房と子ども2人は、私の2人の姉の家族と、わずか10坪のバラックに同居していた。「とにかく、お互い命があって良かった」と、女房も姉も、お互いに手に手を取って私の帰り喜び泣き、私も泣いた。しかし、いつまでもうれし涙に暮れている暇ひまはない。明日からどうやって食うかを考えなくてはならないのだ。
応召前に川魚商売で貯めた8万円など、紙くずほどの役にしか立たない。復員する少し前の3月に、預金封鎖が実施され、新円しか使えなくなっていたのだ。新円は毎月500円しか枠がない。家財道具や衣類を持っている連中は、それを百姓に売ってヤミ米や野菜を手に入れることができるが、こちらは丸焼けで売る物はない。こんなことなら、貯金していた8万円など派手に使っておけば良かったのに、女房は私が帰って来るまで絶対に減らすまいと、倹約して暮らしていたのだ。
私はとりあえず、女房と交替で魚の配給所に働きに出た。しかし、半月ももたなかった。川魚屋を2年かそこらしかやっていない私は、魚屋については素人とだから、配給所のやつには馬鹿にされ、収入も少ない。けんかついでに辞めてしまった