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根本忠雄「焼き鳥商法」> 第五章「川魚で現在の基盤を」

第五章 「川魚で現在の基盤を」

終戦、浦賀へ復員 ~33歳

焼け野原
昭和20年8月。雷州半島にも米軍の大部隊が上陸し、我々も玉砕は時間の問題だったが、戦うだけ戦った。終戦までの半月ほどの間に、私の隊は約3分の1が戦死傷した。生き残ったものは、「死ぬんだったら、手榴弾を抱えて一人でも多く敵をそばに集めて爆発し、自分も死のう」という考えだったが、そんな破目にならないうちに終戦となった。
それから、中共軍の手で海南島に近い雷州半島のプリンス湖の畔に連れて行かれ、収容された藁葺きの掘っ建て小屋で、餓死すれすれくらいの食い物しか与えられなかった。腹が減って腹が減って、毎日食い物の話以外は誰もしなかった。かろうじて生命だけは保つことができ、昭和21年の3月に帰国することになった。
3月10日に雷州半島を船で出発し、浦賀についたのが4月1日。赤痢患者が出て検疫に手間取り、上陸したのは4月3日。まさか生きて帰れるとは思ってもいなかった故国の土を、再び踏むことができた。復員船から降りた私は、浦賀埠頭の石畳を履いている軍靴で力いっぱい踏みしめた。