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第五章 「川魚で現在の基盤を」

四度目の徴兵、上海で母の訃報 ~30歳

昭和18年4回目の招集。そしてその翌年に心の支えだった母親の訃報を上海でうけとった 昭和18年4回目の招集。そしてその翌年に心の支えだった母親の訃報を上海でうけとった
昭和18年の10月。4回目の兵役に駆り出されることになった。戦局は日ごとに激しくなり、今度も生きて帰れるかどうか分からないが、「お国のために逝くのなら男子の本懐だ」という気持ちはあった。川魚屋で儲けた金があるから、残った家族は銀行利子だけでも生活できるが、一年近く寝たきりの母の元気な姿は二度と見ることはできないだろう。私には、母に赤紙が来たことを告げる勇気がなかった。
いよいよ出発という日、母に何と言って挨拶したか覚えていない。心の支えになっていた母とも、おそらくこれが最後の別れだ。
「おっ母さん、じきに帰って来るからな・・・」。後は言葉にならない私を、母の方が励ますのだ。
「何をめそめそしているんだい。戦に行くのに涙を見せる男がありますか。私のことなど心配しないで、元気を出して行って来なさい」
年が明けて昭和19年2月、上海で母の訃報を受け取った。

末期的な軍隊で得た教訓

最愛の母・ぶん 最愛の母・ぶん
配属されたのは、東部第六十二部隊。南方へ行く予定だったが、輸送船不足のため中支に送られて、上海、南京辺りをぶらぶらしていた。19年の5月に、船団を組んで海南島に渡った。8隻の船団のうち無事に着いたのは3、4隻で、後はぜんぶ敵の潜水艦に撃沈されたのだが、私の乗った船は運良く無事な組に入った。
その頃、戦局は不利に傾き、7月のサイパン島玉砕を境目に、食料は急激に欠乏する。軍票の値は大暴落して、軍隊の1か月の給与で蕎麦1杯くらいしか食えない、といった状態であった。
私たちの部隊は、海南島の対岸、雷州半島の山に横穴を堀るのが仕事だった。ツルハシとモッコだけで、高さ2メートル、幅1メートル半くらいの横穴を、海岸の山に縦横に張り巡らすのだ。
連日作業を進めていたが、食糧も欠乏して腹ぺこの中での重労働だから、兵隊は思うように動かない。ツルハシ組が土や岩石を切り崩し、モッコ組が土や岩石を運んで坑外に捨てるのだが、土ばかりのところを堀っていくときは、ツルハシ組は鼻歌まじりで切り崩せる一方、モッコ組の土運びは休む暇もない。反対に、岩石にぶつかると、ツルハシ組はふらふらになるほど大変だが、モッコ組の運ぶ分はいくらも出ない。
私はこういうとき、苦しい方の作業を自ら進んでやった。普通の兵隊の倍の労働だが、飯の量は同じだから腹は人一倍減る。
しかし、私は歯を食いしばって頑張った。命令を実行する責任があったからかもしれないが、そうせずにはいられない性分だったのかもしれない。中隊長は、図面に墨で印を付けながら堀った場所を見て歩き、能率の上らない班の尻をたたいて回ったものだが、私は、「兵隊の感情を無視したやり方はない。兵隊も一生懸命やっているのだから任せてほしい」と食ってかかり、中隊長と大げんかもした。
当時、私の階級は軍曹だったが、いわゆる鬼軍曹のタイプではなかった。軍隊は軍律がきちんと守られ、上官の命令のもと、兵隊が手足のように動くのがふつうだ。星の数が一つ違うだけでも、上官の命令には絶対服従しなくてはならない。ところが、戦局が不利になるに従って軍の威信が落ちてくると、上官の命令など聞こえぬふりをするやつが出てくる。あちこちの玉砕の報が伝わってくるし、海南島にもいつ米軍が上陸してくるか分からないし、いつ死ぬかも分からない。
しかし、いくら混乱しているといっても、戦争中だから、上からの命令は絶えず出ているし、我々下士官はその命令を受けて、部下の兵隊を動かさなければならない責任を持たされている。会社経営で言えば、部課長か係長のようなもので、部下を動かすのにはずいぶん苦労をした。
指揮命令系統の乱れた軍隊では、上官、部下の階級差などものを言わない。統率できるかどうかは、部下の気持ちをいかに把握できるかにかかってくる。兵隊が嫌がる仕事を先頭に立ってやっているうちに、今まで不平ばかり言って働かなかった兵隊も、何も言わなくても働き出すようになったのだ。
人間の気持ちをつかむものは何か。人を使う場でものを言うのは何か。それは、威信でもなければ、組織の力関係でもない。結局、上に立つ者が自ら実行して示す以外にないという貴重な教訓を、海南島の敗戦間近い軍隊生活で体験したのである。