焼き鳥・鶏料理・鰻(うなぎ)|株式会社鮒忠

第五章 「川魚で現在の基盤を」

川魚屋「鮒忠」を開業 ~28歳

川魚屋「鮒忠」を開業 ~28歳
昭和16年、太平洋戦争が始まった年の5月、私は米屋商売を廃業した。アメリカやイギリスなどを相手に戦争が今にも始まりそうだったその頃、食料品、衣類、あらゆる生活必需品が統制で、たいていの商売は自由にできなくなっていた。新しく商売を始めるよりも、軍需工場にでも勤めた方が良かろうといった世の中だったが、根っからの商人の私は、毎日のように町を歩いたり、人を訪ねたりして、新しい商売を探し回った。
運は、どこにころがっているものか分からない。あるとき、父が茶飲み話のついでに、
「何かいい商売は見つかったかい」と聞く。
思わしい商売はないと返事をすると、
「忠雄、川魚屋をやってみないか。米屋のような堅い商売ではないが、ずいぶん儲かる商売らしいぞ」
父は、一人で暮らしている間、鮒や鯉を釣り、川魚屋に売って生計の足しにしていたので、その方面には顔が広く、内情にも通じているのである。
「そんなこと言ったって、うなぎの裂き方も分からないし、鮒のつくだ煮一つこさえ方を知らないじゃないか」
「大丈夫だ。こさえる方は俺にまかせておけ」
父の言うことは、あまり信用がおけなかったが、話を聞いているうちに乗り気になっていた。最も私の決心を促したのは、「川魚」は統制の対象になっていないという点だった。当時はすでに米や肉類ばかりでなく、鮮魚類も統制になっていたが、どじようや鮒などの川魚類は、統制から外されていたのだ。
いったん腹が決まると、決心はもう動かなかった。乗り出したら絶対に後ろには退かないのが主義だ。根本精米店の看板をはずした後に「鮒忠」の看板をかけ、川魚屋を開業する運びになったのは6月のある日。28歳になっていた。
20年近い米屋商売から180度転換し、何の経験もないまま始めた川魚屋商売が、その後の人生を決定し、今日を決める運命の分かれ目になろうとは、そのときは思ってもみなかった。

こすからい川魚商売

食べ物なら何でも売れる時代、川魚は統制の枠外という好条件もあって、川魚屋「鮒忠」は、予想以上に繁盛した。その代わり、米屋のような堅い商売と違って危険も多かった。信用して仕入れたが、半分腐っていて売りものにならないという話はざらで、ごまかされないために、目端が利かないと駄目だが、悲しいことにこちらは米屋から転職したばかりの素人。商売を始めて早速痛い目にあわされた。
ある日、一人の男が鮒を自転車の荷台にいっぱい積んで持って来た。値段は高くなく、生きが良さそうだ。ならば、と買ったはいいが、男が帰ったあとに開けてみると、下の方がみんな腐っている。上の方だけ生きのいい魚を並べておいてあったのに、まんまと引っかかったのだ。
頭にきた私は、その男に電話をかけて、
「お前が置いていったのは、腐ったやつばかりじゃねえか。ふざけるな」
「ちゃんと見て買ったんだろう。生きものは置いとけば腐るにきまってらぁ。あとから難くせつけられる筋合いはねえ」
相手の方が一枚上手だ。
初めのうちはこうした苦労もあったが、川魚の釣師だった父をコーチに商売を続けていくうちに、川魚屋らしくなっていった。

ぶつ切りで売ったうなぎ

ぶつ切りで売ったうなぎ うなぎ割きは簡単に見えても実際は大変な技術を必要とする
開業する前、父は、「心配するな。調理は任せておけ」と言っていたのに、鮒の佃煮の作り方も、うなぎの裂き方も知らない。仕方がないので女房と2人で夜遅くまで、鮒のすずめ焼きや佃煮を作ったが、初めのうちは焦がしたり、煮くずしたりの失敗を何度も重ねた。
うなぎを裂くのは、以前うなぎ屋をやっていた人の女将さんに手伝いに来てもらっていた。開業して1か月ほど経ち、お盆を控えた頃、
「お盆は売れるから、たくさん仕込んでおきなさいよ。私も亭主と2人で手伝いに来ますから心配いりませんよ」と、女将さんが言う。
私よりもこの商売の先輩が言うことを信用し、うなぎを山ほど仕込んで、お客が来るのを待っていた。
お盆になると女将さんの言う通り、店を開けないうちから、注文のお客が押しかけて来る。ところが、肝心の女将さんが、待てど暮らせど姿を見せない。川魚屋を始めてひと月にしかならないが、うなぎを裂くところは何度も見ている。エラに千枚通しを刺してまな板に固定し、出刃包丁で頭から尻尾に向かって、骨に沿って裂いてゆく。下手な者がやると骨に肉がたくさん残ってしまうが、やってできないことはないだろうと、私はうなぎ裂きに取りかかった。
ところが、考えていたほど甘いものではなかった。うなぎをつかもうと思ってもつかめない。いつまで経っても串ざし一本できないのである。待っているお客さんも、しびれを切らして、
「鮒忠さん、串ざしにしなくてもいいから、ぶつ切りでおくれよ」と言い出す始末。
大量に仕込んだうなぎは、何とかぶつ切り商法で売りさばくことができたが、あてにしていた人に裏切られたのは面白くなかった。
お盆も過ぎた23日に、頭をかきながらやって来た女将さんを、
「あんたなんか、もういらないよ」と追い返してしまった。
「人を頼りにするから、いざというときに困るのだ。うなぎ裂きだって、自分で覚えればできること。人を頼っているからいけないんだ!」と、私は自分に言い聞かせた。商売は、自分しかあてにできないものだということを、このとき嫌というほど思い知らされたわけである。

2年間の儲けは8万円

こうして、うなぎ裂きや、鮒のすずめ焼きのコツを覚えて、川魚屋らしくなっていった。物資不足で食料品なら何でも飛ぶように売れた時代だったので、仕入れてきた魚は右から左に楽に売りさばける。売れ残って腐らせてしまうことはなかったから、利も大きい。
だんだん川魚が品不足になって仕込みが難しくなると、金魚も扱った。利幅は大きく、仕入れ30円が平均70円で売れたが、梅雨の雨が金魚には一番いけないことを知らず、一晩で全部死なせてしまったこともあった。
そんな小さな失敗を別にすれば、商売は順調に儲かった。米屋で15年間働いて残した金は7,500円だったが、川魚屋を始めてわずか2年の間に、その10倍の8万円が残った。
昭和18年に入ると、太平洋戦争は次第に厳しい様相を呈し、戦局が急に傾き始めた。その2月、最愛の母が病気で倒れてしまった。商売そっちのけで寝ずに看病したかいがあってか、一時は危険な状態を脱したが、それから1年ほど寝たきりであった。
そんな中、徴用令がきて、大日本兵器に勤務することになった。月給200円で軍需物資の生産に動員されたのだ。軍需工場は24時間の突貫操業で、昼夜3交替制だったから、商売はかろうじて続けていくことができた。
軍需工場の職工は少しでもさぼろうとし、監督は職工をこき使おうと考えている。作業能率を考えて働く者などおらず、職工も監督も、お互い勝手な方向を向いている。これでは上手くいくわけがない。のちに、私が大勢の従業員を使う立場になったとき、この軍需工場時代を思い出しては、人使いのあり方の戒めにしたものである。その当時は、腐った工場で働いているより、戦地に行った方がましだと思っていたほどだ。


※次回、 「四度目の徴兵、上海で母の訃報 ~30歳」は12月10日に公開を予定しております。