焼き鳥・鶏料理・鰻(うなぎ)|株式会社鮒忠

プロローグ

腐ったどじょうの味

商売の道に入って45年

鮒忠創業者 根本忠雄 鮒忠創業者 根本忠雄
商売というのは、意気込み一つでぶつかっていけば自然と道が開けていくものである。私は丁稚奉公時代から数えると、商売の道に入ってもう45年になる。時には失敗もあったが、今日のようになるまでやって来られたのは、どんなときでも「これだけは成し遂げるぞ」という意気込みと、現実離れした夢は追わず地道にコツコツと続けてきたからだと思う。
「商売は、血尿が出るほど追い込まれるような苦しい経験を重ねていって、はじめて一人前になれる」と言う人がいるが、商売は真剣勝負とは言え、私は危険を冒してまで儲けようとは思わない。元来、私はハッタリが嫌いだ。平凡だが「天は自ら助くるものを助く」が信条で、地道にコツコツ働いていれば必ずその努力は報われる。
鮒忠が「焼鳥屋」から出発して、直営店だけでも都内に32店舗、鶏肉処理工場・販売所が9か所、年商60億円を超えるまでになったのも(*)、むやみに拡張経営をしたからではなく、無理のない計画のもとに地道な努力を積み重ねてきた結果に外ならない。

*1976年当時

闇市でぼて振り

鮒忠創業当時の荒廃した浅草 鮒忠創業当時の荒廃した浅草
終戦の翌年、闇市が全盛だった頃、私は「どじょうのぼて振り」をしていた。朝、仕込んだどじょうを入れた桶を担ぎ、上野から御徒町にかけてのアメヤ横丁辺りから下谷長者町、竹町、稲荷町、鳥越辺りまでを売り歩くのである。
夏の暑さの盛りの中、焼け跡にバラックばかりが立ち並んだ道を歩き回ると、どじょうを入れた桶の水が熱くなる。他の行商屋は、炎天下の中を歩き回るような苦労から少しでも早く解放されようと、ある程度売れれば満足してしまうものだが、「早く店を持ちたい!」という執念があった私にとって、それは苦労でなかった。他の人よりはるかに多いどじょうを仕入れ、9割方が売れてしまうまではその日の行商をやめなかった。
竹町辺りは闇屋が密集していて、「100円割いてくれ。150円割いてくれ」と、景気のいい声がかかってくる。調子のいい日には、この辺りで一匹残らず売り切ってしまうこともあった。そんな日の昼飯の弁当の旨さは格別だ。弁当と言っても銀シャリ飯とは縁遠い麦8米2の飯に、前日に売れ残ったどじょうを煮付けた惣菜だ。
ちょうど昼時分は竹町辺りになる。今も残っているかどうか知らないが、町角にあった小さな公園のベンチで食べるのが習慣で、便所の傍の水道の水がお茶の代わり。昼前に全部売り切ってほっと一息入れ、ベンチに腰をおろす。そして、弁当の蓋を開けると、おかずのどじょうがぷーんと匂ってくるのだ。
どじょうは足の早い代物で、死ぬとすぐ腐る。売れ残って死んだどじょうは一晩で腐ってしまうので、女房に醤油で煮たのを弁当に詰めてもらう。生きたどじょうは商品だから、もったいなくて弁当のおかずにはできない。
蓋を開けた弁当からぷーんと匂ってくるのは、この腐ったどじょうの臭いなのである。公園の便所の臭いよりも強烈だ。しかし、これほど旨いと思って弁当を食べたことは、これまでの私の半生にはなかった。今でも、この時に食べた腐ったどじょうの味を忘れることができない。

冬に川魚のつなぎで始めた《焼き鳥》が飛ぶような売れ行きに

昭和21年 焼野原の浅草で裸一貫から操業 昭和21年 焼野原の浅草で裸一貫から創業
昭和21年9月、私は念願の店を出すことができた。浅草・千束の一角、37坪5合の土地を手に入れ、6坪5合の粗末なバラックを建て川魚屋を開業した。資金は1万円ばかり。店と言っても名ばかりで、店員はいない。妻と妻の妹と私の3人で、浅草から吉原にかけて、どじょうやうなぎを串焼きにして売って歩いた。この頃、千束の辺りは焼け野原同然だったが、吉原に近いこともあって商売は順調に繁盛した。
1年ほどで周囲に家が建って活気づき増築資金もできたので、「鮒忠」の看板をかけて待望の飲食店を開業した。初めのうちは、どじょうやうなぎなどの川魚専門だったが、どじょうやうなぎは夏場の商売で冬になるとガタッと落ちる。そのつなぎに始めた焼鳥が大変な売れ行きを示して、どちらが本業かわからないほどになった。
それどころではない、焼鳥に続いて私が創案して売り出した「ひな鳥の丸むし」がまた大ヒットして、鮒忠と言うより鳥忠と言った方がふさわしいほど、それからは鶏が商売の中心になった。
鮒忠本店 鮒忠本店
ひな鳥の丸むしを始めたばかりの頃、
「あんなに安い値段で売って引き合うのか」
「同じ物を銀座辺りで出したら、大変な反響を呼んで店の前に長い行列ができるだろう」などと言われた。
ひな鳥は、進駐軍の需要で急速に増えていた速成の養鶏ブロイラーを産地から直送で仕入れていたから安かったが、むし焼きにして売る値段も、加工手間賃を差引けば利益はカスカスぐらいの安い値をつけた。仕入れ値が上がったときは原価を割ってしまうこともあったが、値段は変えなかった。
良いものを安く売れば、必ずお客はついてくることを信条としていた私は、どんなことがあっても値段を上げることは避けた。おかげで商売は繁栄を続け、浅草界隈だけでなく銀座や新宿辺りからわざわざ来るお客も増えた。
昭和26年 当時は夫人(右はし)も陣頭指揮でサービスにあたる 昭和26年 当時は夫人(右はし)も陣頭指揮でサービスにあたる
その間、店は拡張に拡張を重ねた。これと思う目抜きの場所に次々と支店を開設し、鮒忠の看板をかける。本店で何年か働いた若い店員を支店長に据え、商品の陳列法、客扱いはみな本店と同じにする。20歳を過ぎたばかりの店長に、「存分に経営してみろ」と全て任せる。人間というのは、信頼すればするほどそれに応えるものである。若い店長に大きな権限と責任を与えて独断専行で支店を切り盛りさせたところ、増やしていった支店のいずれも本店に劣らない成績を上げたのである。
こうして昭和26年、株式会社に改組し店舗の拡張を続けて、現在は資本金1億4千万円、従業員約550名、直営店約32店舗、年商60億円、飲食店業界では一方の雄として認められる存在になった。
人間、一生の間に成功するかしないかは単なる運ではない。どんな不運な人でも、一度や二度のチャンスは必ずある。そのチャンスをつかめるかどうかが分かれ目だ。チャンスをつかむには、どんな逆境にも耐え、「石にかじりついてもやってやるぞ」という根性を持っていなければ駄目だ。