焼き鳥・鶏料理・鰻(うなぎ)|株式会社鮒忠

創業者ストーリー

裸一貫からのブレない生き方、稼ぎ方

根本忠雄焼き鳥商法

年表

  • 20歳

    満州へ

  • 昭和9年12月

    徴兵検査に合格し、満州への派遣が決まる【2年】

    3年3か月築きあげた店を売りに。帳簿をすべて見せ掛け値なしで「800円でどうでしょう」と言ったところ「1000円で買いましょう」との返事が。

  • 漸く軌道に乗った根本精米店も満州派遣によりもろくも崩れてしまった
  • 23歳
  • 昭和11年11月

    2年の兵役から除隊となり、帰京
    翌2月安藤ていと結婚

    米の組合ができていたが入れず、一匹狼で『兵隊がえりの米屋』として暴れることした。「命がけの安値段」

  • 24歳

    甲府から
    北支へ

  • 昭和12年9月

    支那事変が始まり、2回目の徴兵
    3日後に入隊せよ【1年4か月】

    甲府49連隊に入隊し、北支最前線へ。

  • 25歳

    北支から
    満州へ

  • 昭和13年6月

    北支最前線から満州に移動、除隊となり無事に帰国を果たす

    母と妻ていが店を守ってくれていた。帰国し店は裏通りから表通りに進出し、店員も15人ほどになる。

  • 26歳
  • 昭和14年4月

    3度目の徴兵
    麻布三隊に内地勤務【1年9か月】

    日曜のたびに家に帰り店の帳簿や仕入れを指示した

  • 27歳
  • 昭和15年12月

    入隊し1年9か月、除隊となった

    12歳のときに家を出たまま音信不通だった父の所在がわかりよび寄せ同居、留守中の店を守ってもらうよう説得。

  • 28歳
  • 昭和16年5月

    太平洋戦争が始まり、戦時統制により米が配給制となり廃業を決意

    【私は根っからの商人だ】配給所の月給とりになるつもりはなく、他の商売をするため廃業する

  • 昭和16年6月

    統制の対象になっていない「川魚」を扱う『鮒忠』を始めた

    ぶつ切りでうなぎを売った。食糧難の時代、食べ物なら何でも売れる時代。

  • 30歳

    上海、南京

  • 昭和18年10月

    太平洋戦争が厳しい局面となり、ついに4回目の赤紙が【1年10か月】

    東部第62部隊に入隊し上海、南京へ。翌昭和19年5月には海南島に渡った(8隻のうち半分は、敵に撃沈されてしまった)

  • 32歳

    雷州半島

  • 昭和20年8月

    8月17日終戦の詔勅

    海南島に近い雷州半島の収容所に送られ、半年過ごす。

  • 浅草・千束

  • 昭和21年9月

    浅草千束町に手ごろな土地が見つかった
    37坪5合、坪250円
    惣菜店『鮒忠本店』を創業。まだ店前の人通りはまばらで主な売上は行商であった

    資金はどじょうの行商5千円と封鎖になっていた5千円、合わせて一万円。

  • 昭和21年11月

    冬のつなぎに鶏の販売、生肉から焼き鳥へ行商

    月の売上1万円。インフレに次ぐインフレ時代。昭和24年までお金を残すことより無事に商売を続けていく方が大事だった。「もうけは少なく数をこなす」ことを心に刻みつけて商売を続けた。

  • 37歳
  • 昭和25年3月

    鮒忠本店2階建にして飲食店を開業

    1階は惣菜店、2階は飲食店。店員は8人。

  • 昭和26年正月、本店前に勢揃いした従業員。のれん分けで独立した人たちの顔も見える
  • 38歳
  • 昭和26年

    「鳥の丸蒸し」を本格的に売り出す

    1本10円の焼き鳥がとぶように売れて、一人40羽しかさばけない

  • 40歳
  • 昭和28年

    足立区保木間に、鶏の卸売り事業部を設立

  • 44歳
  • 昭和32年

    支店25店

  • 62歳
  • 昭和50年

    直営30店、FC60店
    生産工場4、営業所10、セントラルキッチン。日本全国の鶏肉市場の10%シェア

  • 65歳
  • 昭和53年9月

    フランチャイズ100店

  • 67歳
  • 昭和55年4月

    代表取締役会長に就任