鮒忠について
1946年、戦後の浅草で生まれた一串の"焼き鳥"が私たちの出発点となりました。
昭和21年(1946年)、浅草千束の地に川魚料理屋「鮒忠」として開業。はじめは鮒やどじょう、うなぎの串焼きが商いの中心でした。
ところが冬になると川魚がとれなくなり、売れるものを探して本格的に生産がはじまった「鶏」を仕入れることにしました。・・・はじめは鶏肉として売ってみますが、なかなか売れません。そこで「鶏肉」を串に刺して焼いた「焼き鳥」を1本10円で売り始めたところ、これが大人気となります。庶民に愛された「焼き鳥」は戦後の復興と共にあっという間に広まっていき、昭和26年頃にはとぶように売れて生産が間に合わないほどのブームになりました。
ところが冬になると川魚がとれなくなり、売れるものを探して本格的に生産がはじまった「鶏」を仕入れることにしました。・・・はじめは鶏肉として売ってみますが、なかなか売れません。そこで「鶏肉」を串に刺して焼いた「焼き鳥」を1本10円で売り始めたところ、これが大人気となります。庶民に愛された「焼き鳥」は戦後の復興と共にあっという間に広まっていき、昭和26年頃にはとぶように売れて生産が間に合わないほどのブームになりました。
・・・その急成長に合わせて「食用鶏」の調達のための生産から卸売の一次〜二次産業を運営。直営店舗の拡大のほか、日本初のFC飲食展開、そして日本の外食文化黎明期において鮒忠以外にも200店以上の焼き鳥店主の修行に寄与、協力し、独立店を輩出しました。
このような時代背景から「日本の居酒屋スタイル=焼き鳥」という日本の食文化が定着し、その始祖となった創業者・根本忠雄は「焼き鳥の父」と呼ばれるようになりました。
このような時代背景から「日本の居酒屋スタイル=焼き鳥」という日本の食文化が定着し、その始祖となった創業者・根本忠雄は「焼き鳥の父」と呼ばれるようになりました。
日本の食文化『焼き鳥』に感謝し、よりその魅力を伝えるために、2007年『8月10日を焼き鳥の日』として制定しました。
創業より78年、焼き鳥を通じてこれからも『幸せな食と笑顔』を広めていきます。
◼️書籍紹介
「焼き鳥の父」物語、根本忠雄の「焼き鳥商法」
昭和16年、創業者 根本忠雄は、どじょうやうなぎを中心に扱う川魚屋として商売を始めました。戦争を経て、浅草・千束の地に「鮒忠」の看板を掲げたのが、昭和21年9月15日。店以外にも、自転車にどじょうを乗せて稲荷町や下谷、うなぎの串焼きを持って吉原へ売り歩いたと言います。
商売は順調でしたが、冬場になると川魚がほとんど捕れません。冬場をしのぐ商売として悩んだ末に、当時はまだ高級だった鶏肉を串に刺して焼いてみました。この「焼き鳥」が大変好評で、戦後の復興とともに庶民の味として大衆に広まっていき、根本忠雄は「焼き鳥の父※」と呼ばれるようになりました。
※ ウィキペディア参照 https://ja.wikipedia.org/wiki/根本忠雄
商売は順調でしたが、冬場になると川魚がほとんど捕れません。冬場をしのぐ商売として悩んだ末に、当時はまだ高級だった鶏肉を串に刺して焼いてみました。この「焼き鳥」が大変好評で、戦後の復興とともに庶民の味として大衆に広まっていき、根本忠雄は「焼き鳥の父※」と呼ばれるようになりました。
※ ウィキペディア参照 https://ja.wikipedia.org/wiki/根本忠雄